大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

ほんの小さな過ちをしたら、愛を受けとってはいけないという大きな誤解。

私たちは、ほんの小さな過ちをしたら、もう愛や幸せを受けとってはいけない、と思ってしまっていることがあります。

それは、正せばいいだけの小さな過ちを、大きな罪として捉えているからかもしれません。

その誤解を抜けだすカギは、無邪気さです。

1.「誰かを傷つけてしまった」という罪悪感

昨日の記事では、「誰かを傷つけてしまった」という罪悪感について、お伝えしました。

「誰かを傷つけてしまった」という罪悪感との向き合い方。 - 大嵜直人のブログ

ここのところ続けております「罪悪感」シリーズですが、食傷気味になってないでしょうか笑

とりあえず、まだ書きたいことが出てくるので、もう少し続けてみようと思います。

それにしても、どれだけ私は「罪悪感」が好きなのでしょうか笑

自分を傷つけるのは、自分しかいない

「誰かを傷つけてしまった」という罪悪感があります。

これは、非常に分かりやすいものであり、それだけに強烈に私たちは自分自身を責めてしまうものです。

この罪悪感を考えるのに、昨日の記事では2つの視点をご紹介しました。

身体的、物理的な傷を別とするならば、その人を傷つけることができるのは、その人自身しかいない、という視点が一つ目です。

同じことを言われても、同じことをされても、傷つく人もいれば、それでない人もいる。

それを決めているのは、その人自身であり、もっと言うならば、その人の自己認識、セルフイメージだったりします。

「あなたは、ほんとに才能が無いよね」と言われて傷つくのは、「自分には才能が無い」と認識していて、かつ、それを自分が責めている場合だけです。

「自分には才能がある」というセルフイメージを持っている人であれば、「は?何言ってんだコイツは?」と思うだけでしょうし、

「自分には才能が無い」という自己認識があったとしても、それを自分が受け入れていれば、「だから人一倍努力するだけです」となるだけです。

ただ、「なぜ私には才能がないんだ…」と自分を責めている人にとっては、先の言葉を投げかけられたら、すごく傷つくのでしょう。

自分を傷つけることができるのは、自分自身しかいない。

同じように、あの人を傷つけることができるのも、あの人自身でしかありません。

相手の傷は、自分の傷の「投影」かもしれない

そして、もし相手を傷つけてしまった、相手が傷ついているように見えるとしたら、それは自分の傷の「投影」かもしれない、というのが二つ目の視点です。

私たちは、自分自身の内面を、外の世界に映し出します。

少しややこしいですが、先ほどの例でいえば、誰かが「才能が無い」と言われて傷ついているように見えたとしたら、それは自分自身が持っている「才能が無い」ことへの傷を映し出しているだけなのかもしれません。

これ、あまりにも当たり前に見えるので、なかなか気づきにくい視点ではあります。

「投影」って、世界を見るフィルターのようなものですから、紫色のフィルターを持っている人は、それがフィルターだとは思わないでしょうから。

ただ、「投影かもしれない」という視点を持っておくことは、とても大切なことといえます。

相手が傷ついているように見えたとしたら、それは自分の傷かもしれない。

そうすると、相手を癒そうとするならば、まず自分の傷を癒すことが先になってきます。

自分の傷が癒えれば、またそれを相手に映し出すのでしょうから。

「誰かを傷つけてしまった」という罪悪感は、強烈です。

それだけに、その相手の傷をどうにかしようとしてしまったり、自分を罰したりしたくなってしまうものです。

しかし、まず目を向けるべきなのは、自分自身の傷であり、それを癒していくことが大切なのことです。

2.たった一つの過ちで自分を責め続けるべきか

まず目を向けるべきなのは、相手ではなく自分自身。

自分自身が抱いている、傷や痛みを癒していくこと。

それが、相手の傷を癒すことでもあり、自分自身の罪悪感を手放していくことにもなります。

では、ここでいう自分自身の傷とは、なんでしょうか。

「罪悪感」を抱くに至ったできごと、それを通じて感じた痛み。

多くの場合、それは自分のせいで、自分の大切な人を傷つけてしまった、笑顔が見られなくなってしまった、というできごとだったりします。

自分の力が足りなかったせいで。

軽はずみなことを自分が言ったせいで。

自分が何かをしなかったせいで。

自分が判断を間違えたせいで。

…などなど、いろんなできごと、あるのでしょう。

しかし、それは「罪」なのでしょうか。

もちろん、結果として、自分の大切な人の笑顔が曇ってしまった、といったことは、あったかもしれません。

けれども、そうした過ちは、ほんとうに「罪」なのでしょうか。

そして、その「罪」で、ずっと自分を罪人のように責め続けるべきなのでしょうか。

そうではないように、思いませんか。

 

小さな子どもが、何かの拍子に、騒いでいたとします。

しかし、そこは静かにしていないといけない場所だった。

その子どもが、そのことに罪の意識を持ち、あなたや世界からの愛や贈り物を、ずっと受け取り拒否してしまうとしたら。

とても、悲しいことではないでしょうか。

「気にすることないんだよ、ほんの小さな過ちなんだよ」

と、その子の手を握って、その怯える目をやさしく見つめてあげたいと思いませんか。

 

さて、その子と同じことを、私たちは自分自身がしていないでしょうか。

3.「罪」ではなく「誤り」なら、正せばいい

あなたがしてしまったと感じるのは、「罪」ではなく、「誤り」「ミス」だったのかもしれません。

そして、「罪」ならばそれを償う必要があるかもしれませんが、「誤り」であれば、それを正せばいいだけではないでしょうか。

「知らなかったんだ。だから次から気をつけるね」

小さな子どもは、きっとそう言って笑うのでしょう。

それで、いいのだと思います。

「誤り」は、正せばいい。

あなたのなかの、無邪気な子ども。

その子が笑っていられるように、してあげてください。

「罪悪感」がもっとも嫌うのは、無邪気さ、童心、純粋さ、軽さといったものです。

これらは、私たちが子どもの頃に持っていたものであり、また「依存」における恩恵でもあります。

それは、誰の中にでもある要素です。

あなたのなかのその子が、無邪気さと元気を取り戻していくと、今度はあなたの愛する人が、それらに気づくのを助けることができます。

 

「罪」はなく、あるのは「誤り」。

そして、「誤り」ならば、正せばいい。

カギになるのは、あなたのなかの無邪気さや童心といえます。

ほんの小さな過ちをしたら、愛や贈り物を受けとってはいけないと考えるのは、完全な誤解です。

今日は、ほんの小さな過ちをしたら、愛を受けとってはいけないという大きな誤解、というテーマでお伝えしました。

ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

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