いらっしゃいませ、ようこそお越しくださいました。
今日は久しぶりに以前書いた言葉をご紹介いたします。
知らず知らずのうちに季節はめぐっていき美しい情景を見せてくれるように、私たちは自分に必要なことは、必要なときに周りから教えてもらえる、というテーマです。
必要なことは、必要なときに教えてもらえる。
週末の夕方、息子と娘を連れて散歩したとき。
息子は以前行った「きょうりゅうのこうえん」に行くと言ってきかない。
その公園は、車で片道1時間半かかる。
好きなこと、やりたいことをする。
自分に制限をかけない。
そして、近しい存在は自分の鏡。
以前の首長竜の話やトリケラトプスの話は、そんな気づきを与えてくれたが、その日は違った。
先日辻田さんとお話しした際の、子どもに対して親の信じることを言い切ることも必要、との教えも頭にはよぎっていた。
今から行ったら、遅くなるから今日は行かないよ。
おとうは近くの富士山の遊具がある公園で君と遊びたい。
それが嫌なら家に帰るかい?
息子は納得せずにひと悶着したが、結果としては富士山の公園を楽しんだ。
自分の中の正誤善悪の判断を一旦やめて、自立を手放して周りに頼る。
傷付いた私の中の女性性を癒すことをしばらく続けてきたけれど、どうやら陰陽反転の時期のようだ。
それはまた以前のように自立に振れすぎて孤立を深めることではない。
私という存在を確立して境界線を引くこと。
自分にできることを真摯に見つめて、取り組むこと。
そしてできないことは助けを求めること。
今なすべきことは日々変わっていく。
季節のめぐりがそれを教えてくれるように、きっと私に必要なことは必要なときに教えてもらえる。
どうして自分を責めるんですか?他人がちゃんと必要なときに責めてくれるんだから、いいじゃないですか。
神様はサイコロを振らないと信じた稀代の物理学者も、そう言っていたのだそうだから。
2017.6.15
これを書いてから9ヶ月くらい経っているんですね。
懐かしい限りです。
当時の私は、感情を抑え込んで、仕事でも家庭でも周りに頼らずがむしゃらに自分一人で何でもこなそうとする、いわゆる自立をこじらせた状態でした。
そこから対人関係でうまくいかなくなり、幸運にもご縁を頂いたカウンセラーの力をお借りして自分を変えようとしていた時期でした。
自分の周りとうまくやっていけなくなって、何がしかの問題を抱える。
言ってみれば、それは今まで自分のやってきたやり方の結果なわけです。
そうしたときに、その結果を変えたいと思うならば、結局は今までやってきたやり方と反対の方をすることが一つの鍵になるわけです。
以前のその私の場合の逆とは、
人に頼る・助けを求める、任せる・委ねる、信頼して待つ、自分で何かをコントロールしようとすることを手放す、感情を感じてみる、自分のやりたいこと言いたいことを我慢しない・・・
というようなことでした。
ただ今までやってきたことと言うのは習慣づいているので、なかなか一朝一夕にはできませんし、今まで自分で何でもやらないといけないと思っていた人が、その逆に周りに助けを求めるのは超絶怖いわけです。
なので時間はかかるのですが、日々ちょっとずつ季節がめぐるように、少しずつ少しずつ小さなことからやっていくわけです。
それである程度までいくと、また今度はやってきたことの逆が求めらるようになります。
それは以前うまくいかなくなったやり方ではなくて、もう一段階違うやり方でできるようになっているわけです。
それはまるで私たちが歩くときに右足と左足を交互に前に出すことで歩くことができるように、片方を磨いたらまた一方を磨く時期がやってきます。
そしてそれは、自分では気づかなくても周りが教えてくれます。
あまりにどちらかに偏り過ぎたときは、きっとまわりが教えてくれます。
そう、今日出てきた「神様はサイコロを振らないと信じた」アルバート・アインシュタインの言の葉のように。
私たちはそのサインを受け取れるように、ただ心を開いて日常の細部を見つめることが大切なように思うのです。
今日もお越し頂きありがとうございました。
どうぞ、ごゆっくりお過ごしください。