いらっしゃいませ、ようこそお越しくださいました。
先日、旅情に寄せて綴った記事の終わりに、
「旅をすると人生が豊かになる」けれど、「旅をしないと人生は豊かになれない」というわけではない、と書きました。
他のテーマにも応用できそうですので、少しこのネタを扱ってみます。
鍵はどうやら「自己否定」と「命題の裏」のようです。
数学が丸出ダメ男だった私ですが、その中でも比較的マシだった分野が高校数学の中でありました。
「集合と論理」の分野です。
ちょっと高校時代を思い出しながら、頭の体操をしてみましょう。
正しい(真)か正しくないか(偽)が数学的に決まる文章や数式のことを「命題」と呼びます。
「2で割り切れるならば、偶数である」
「ネコならば、動物である」
というように、「AであるならばBである」というのが「命題」ですね。
この「命題」に対して、三つの仲間がいます。
「Bであるならば、Aである」 = 逆
「Aでないならば、Bでない」 = 裏
「Bでないならば、Aでない」 = 対偶
懐かしいですね。
どれが逆でどれが裏か、よく分からなくなりますね。
この仲間たちのなかで、「命題」の真偽とその「対偶」の真偽は一致するという性質があります。
いっぽうで、「命題」の真偽と「逆・裏」の真偽は必ずしも一致しません。
先の「ネコならば、動物である」という例ですと、
逆 : 動物ならば、ネコである。
(偽ですよね、ネコ以外に動物はたくさんいます)
裏 : ネコでないならば、動物でない。
(同じくこれも偽です)
対偶 : 動物でないならば、ネコでない。
(これは真です)
となります。頭が痛くなってきたでしょうか。
私も書いてて、数学の追試の時間を思い出してブルーになりました。
早く終われ!と思っていたわりに、悔しかったりした時間は20年経っても格好覚えているものですね。
さて、こんな逆・裏・対偶なんて20年ぶりくらいに触れたことをつらつら書いたのには理由があります。
それは、私たちは自己否定が強いときに、こうした「裏」を取る思考を日常の中で使ってしまっているように思うのです。
冒頭に挙げた例でいくと、
「旅をすると、人生が豊かになる」という「命題」を、「旅をしないと、人生は豊かにならない」という「裏」に変換して「自分は旅に出ていないから、豊かでないんだな」と自己否定をしてしまうように。
もちろん、別に旅をしていないで豊かな人生を送っている方はたくさんいらっしゃるのに、です。
ある「命題」を耳にしたときに、その「命題」の「裏」をとってしまうのですね。
旅の例に限らず自己否定が強いと、いろんな場面でそんな「裏」を取る思考をしてしまいがちです。
「お母さんが笑顔なら、子どもは笑顔になる」
⇒ 「お母さんが笑顔でないなら、子どもは笑顔でない」
「お金持ちは、風水を気にしている」
⇒ 「お金持ちでない人は、風水を気にしない」
「成功する人は、人脈をつくるのが上手い」
⇒ 「成功しない人は、人脈をつくるのが下手」
お母さんが笑顔でなくても子どもが勝手に笑顔の場合もあるし、風水など気にもかけないお金持ちも世の中にはいると思うし、人脈づくりが下手でも人が周りから寄ってくる成功者もいるはずです。
私たちは自分の見たいように世界を見ます。
言い換えれば、私たちは自分のセルフイメージを世界に投影しているといえます。
どんな景色や出来事であっても、まったく正反対に受け取る人がいるのは、そのせいだとも言えます。
自己否定をしたいと、どんな命題や言葉や出来事を見ても、自分を否定するための材料にしてしまいます。
一方で自分を肯定したいと、どんな状況で何を見ても、自分を肯定する材料にしかなりません。
先ほどの例のように、「命題」の「裏」を考えたくなってしまうときは、実は自己否定が隠れているのかもしれません。
そんなときは、
「命題の裏は必ずしも真じゃないし、偽であることもあるよね」
と考えてみると、少し世界の見方を変える手助けになるかもしれません。
そしてもし少しでも見方が変われば、もう大丈夫。
「癒し」とは世界の見方を変えることであり、自己否定のベクトルを別の方向に向けることができているはずです。
あとは日にち薬、ですね。
そもそも、論理学において「命題」とは「真偽」が明確に決まるものを呼ぶので、今日挙げた例は厳密には「命題」ではありません。
けれども、思考がぐるぐるするタイプの方には、もしかしたらハマるお話かもしれないと思い、綴らせて頂きましたが、いかがでしたでしょうか。
今日もお越し頂きまして、ありがとうございました。
梅雨の合間の晴天がとても気持ちよく、先日の朝は渋滞した車窓からこんな夏空を拝むことができました。
どうぞ、ごゆっくりお過ごしください。