遅ればせながら、漫画「陰陽師」を読んでおります。
友人に勧められて読み始めたのですが、その雅で幽玄な世界観にどっぷりとハマってしまいました。
いま4巻まで進みましたが、この後が楽しみで仕方がありません。
そして原作の小説、映画まであると聞いて、ワクワクしております。
ここのところビジネス書や実用書を読むことが多く、なかなか世界観が作り込まれた小説や漫画や映画、舞台といった「物語」に触れていませんでした。
久しぶりに素晴らしい「物語」に触れて思うのは、そこで心を動かされることは、すべて私自身のなかの一部が反応していると感じました。
これまでいろんな「物語」に触れてきましたが、また新しい視点で「物語」を楽しむことができるようになったように思います。
ここのところ、「投影」と「シャドウ」についての記事を書きました。
今日は誰に、何に、魅力を感じますか? - 大嵜 直人のブログ
アポなし客が教えてくれるもの 〜「シャドウの統合」から「正しさを手放すこと」まで - 大嵜 直人のブログ
目に映るものは、すべて自分の内面を映し出したもの。
美しいと感じる花が目に映るのならば、その花を美しいと感じる美しい内面がある。
あの人は本当に人を惹きつける魅力があるとすると、その魅力は必ず自分の中に存在している。
才能や魅力もそうなのですが、反対に自分が嫌ってたり、イヤだったり、苦手だったりすることも同じ。
それは、知らずに抑えつけてきた「シャドウ」と呼ばれる自分の影の部分なのかもしれません。
「陰陽師」を読んでいると、作中に出てくる心動かされる登場人物は、すべて私の内面を映し出しているように感じるのです。
その名の通り陰陽を司る阿倍晴明も、
類まれな管弦の才を持ちながらそれを自覚していない源博雅も、
無限の身体で有限なるものに想いを寄せる切ない白比丘尼も、
怨霊となった菅原道真も、
すべて私の中にある大切な何かのように思うのです。
それを見るために、人は「物語」を欲するのかもしれません。
なかなかこの幽玄な世界を言葉にするのは難しそうですが、一通り読み終わりましたら、具体的な内容についてのレビューをまた書きたいと思います。
今まで触れることのなかった名作を知ることができて、嬉しく思います。
さて、昨日は二十四節気のなかの「白露」でした。
日中の残暑はまだ厳しいですが、夏から秋へ本格的に交代する時期。
草木に降り露が白濁したように見えることを、秋の目印にしたことからその節気の名の由来があるそうです。
千年以上前の平安京で、晴明と博雅は白濁した露に秋を見たのでしょうか。
そんなことを妄想できるのも、優れた「物語」に触れることの恩恵かもしれません。
どうぞ、今日も佳き日をお過ごしください。