重陽の節句の日を前に、飼っていたノコギリクワガタのオスが力尽きていた。
数日前から昼間も隠れずにじっとしていたのだが、やはり夏の終わりともに弱っていたのだろうか。
8月の立秋前の一番暑いころに家にやってきてから、1か月と少し。
去年の夏に飼っていたクワガタが力尽きたときは、よく分からずきょとんとしていた息子も、今年はもう死というものを理解しているようで、目に涙を浮かべていた。
週末の不安定な天気をにらめっこしながら、近所の公園に虫かごとスコップを持って埋葬しに行くことにした。
「どこに埋める?」
「ネコとか、ほかのこどもとかがわからないところがいい」
「そうだな、じゃあそこらへんの木のふもとはどうかな」
「うん、そうする」
「でも、アリにたべられるかもしれないよ」
「食べられていいんだよ。蟻とか、他の虫がクワくんを栄養にしたりして分解していくんだ。そうすると土の栄養になって、今度は君が大好きなカブトやクワガタたちの幼虫のごはんになる。それでいいんだよ。」
「ふーん。」
「おとう、ゼリーと木もいっしょにいれたい」
「おう、一緒に埋めてやったら、クワくんも喜ぶと思うよ」
雨上がりの昼下がり、湿った風が強く吹いていた。
ほんの少し前まで体温よりも高い猛暑の気温だったのに、季節は流れる。
風に吹かれて、埋葬した木の葉がざわざわと鳴いていた。
少し土の盛り上がったその場所に、名残惜しそうに何度もスコップで土をかける息子を見ながら、いったい私はいつ「別離」ということを知ったのだろうか、と思った。
こうして、一緒に過ごした生き物が動かなくなったときなのか。
あるいは、親しい人を失ったときなんだろうか。
だとしたら、今生の「別離」とは、いったい何を指すのだろうか。
その姿に会えないこと?
もう話すことができないこと?
声を聴くことができないこと?
考えてみれば、
今日のさよならが、結果的に今生の別れになることだってあるし、
駅でばったり会ったあの出会いが、顔を見ることができた最後の機会だった、ということだってあるだろう。
その一方で、
残った写真を見るとその笑顔を思い出すこともあるし、
ふとよく似た声を耳にすることもあるだろうし、
会えなくてもどこか側にいることを感じることもあるだろう。
だとすると、いったい「別離」とは、そして「不在」とは何なのだろうか。
揺れる木々の葉の音を聴きながら、そんなことを考えていた。
こんもりと土を盛って息子は満足したようだった。
二人で手を合わせて、祈った。
公園で遊ぶかと思ったら、自転車の後ろにそそくさと乗って息子は声をかけてきた。
「じてんしゃでドライブしたい。」
秋茜がいくつか飛んでいたその公園を抜けて、私は少し遠くの公園まで自転車を走らせた。
坂道を下りながら感じる風は、少し湿っていたが秋の心地がして気持ちよかった。
「別離」とは過去のことであり、
「不在」とは未来のことなのかもしれない。
もうずいぶんと高くなった空に、結構な早さで雨雲が流れているのを見上げて、私はそんなことをぼんやりと想った。