しまった、安易だったと気づいた。
「今年もカブトムシの幼虫を飼うんだぞ」と息子が主張してきたので、いつも行くホームセンターに行ったところ、もう取り扱っていない、と返された。
シーズンもほぼ終わったので、もう外国産のカブトムシとクワガタの幼虫しか取り扱っていない、と店員の方は申し訳なさそうに話す。
忙しいところ、ありがとうございます、と御礼を言って、少し離れたところにある別のペットショップに電話してみる。
同じく、もう国産のカブトムシの幼虫は売っていない、との答え。
去年は長月の声を聞くか聞かないかの頃に、みな亡くなってしまったので、そのころに幼虫を買いに行っていたのだろう。
今年の息子のファミリーは、カブトムシ2匹とクワガタ2匹がまだご存命である。
その飼育に夢中になっているうちに、幼虫を買うシーズンを逃してしまったらしい。
ネットでは販売しているところを見つけたが、息子は通販は可哀そうだからイヤだ、と譲らない。
何が可哀そうなのかよく分からないが、ダメなものはダメらしい。
「買えませんでした」が通用するはずもなく、私は探索範囲を市内全域に広げ、ペットショップ、ホームセンターの類いをしらみつぶしに電話していく羽目になった。
=
ようやく「売ってますよ」と引っかかったのは、自宅からずいぶんと遠く離れたスーパーの中に入っているペットショップだった。
「えぇー、そんなに遠いの?なんで?」と息子に責められる。
理不尽きわまりない。
しかし、行く以外の選択肢はない。
車に乗り込み、ナビをセットしようと見た住所に、見覚えがあった。
以前に、私が社会人になったときに一人暮らしをしていた場所の近くだった。
記憶の底に沈んでいた、そのスーパーの名前が、滲み出るように浮かんできた。
一度、訪れたことがあった。
=
生まれた土地へのUターン就職を決めた私だったが、社会人になる直前に肉親との突然の別離があった。
誰もいない実家に戻ることもできず、会社から近い土地にアパートを借りて一人暮らしを始めた。
故郷に戻ってきたはずが、気づけば私は一人だった。
地縁も血縁もない土地で、暮らしていた。
知らない土地を訪れた異邦人、よそ者、仮住まい、あるいは部外者…そんなような言葉が表す感覚が、いつも身体の奥に染み付いていた。
唯一、会社だけが、私を社会とつないでくれていた。
ワーカホリックになるのも、当たり前だったのかもしれない。
休みの日は、何もすることがなかった。
最低限の家事をして、あとはぼんやりと、ベッドで横になっていることが多かったようにも思う。
手負いの獣のように。
私は肉親との別離の傷を、静かに舐めていたのかもしれない。
=
そんなある日、何かを変えようともがいたのかもしれない。
いつも訪れるスーパーとは、逆の方向に歩いてみた。
そこに、件のスーパーはあった。
どこか、新しい世界や、何か小さな変化、そういったものを求めていたのかもしれない。
そのスーパーで、その日の夕飯を買った。
下町らしく、年齢層の高い客が多かったが、それでも親子連れもいたようにも思う。
その一人一人に、それぞれの暮らしがあって、「その日」を生きている。
けれど、その光景を眺めている私には、どうもそれが馴染まなかった。
どこにも、入れない。
どこに行っても、居場所がない。
異邦人。
帰り道の夕暮れは、どこまでも闇に沈んでいくように見えた。
=
そんな古い傷の記憶が、にじみ絵のように浮かんでは消えていった。
なぜ、いま思い出すのだろう。
心の傷は、自分でその痛みを感じ切ることで、癒えるとするなら。
それは、ある意味で福音のようなものかもしれない。
赤信号で止まるたび、そんなことを思った。
渋滞しながらもようやく着いたそのスーパーは、記憶の中の姿そのままだった。
スーパーの道向かいの、お好み焼き屋。
テイクアウトに数人が並んでいる風景も、そのままに。
行き交う人たちも、どこか、その20年ほど前のままのような。
感慨にふける暇もなく、息子に急き立てられてペットショップを訪れる。
お目当てのカブトムシの幼虫は、夏の終わりとともに縮小された昆虫コーナーにいた。
来年の夏まで、元気に育ってくれるだろうか。
店を出ると、まだらな秋の雲が空を埋めていた。
少しだけまぶしい日差しが、どこか夏の余韻を感じさせた。
自宅への帰り道、ナビは幹線道路が合流するのが特徴的な道を案内した。
ふと、あのころ一緒に仕事をしていたツルさんを思い出した。
異邦人なりに、よそ者なりに。
よく、頑張っていたのかもしれない。
そう思いながら、ハンドルを切った。