時候は「天地始粛(てんちはじめてさむし)」、暑さも弱まりを見せるころ
…のはずなのだが、残暑厳しい。
されど、季節は歩みを止めないようで、少しずつ秋の音色が響き始める。
「粛」の字には、「弱まる」という意味があるようだ。
その字の通り、息子が大切に飼っていたカブトムシ・クワガタのうち、5月末に羽化したカブトムシと、森で捕まえてきたノコギリクワガタが力尽きた。
どちらも3か月近くも、元気な姿を見せていてくれていたが、長月の声を聞くことなく旅立っていった。
カブトムシも、ノコギリクワガタも、ともに夏を越せない生きもの。
その定めとはいえ、やはり息子は寂しげだった。
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例年と同じように、その亡骸を土に還しに行く。
道行く陽射しは、まだ真夏のような力強さがあった。
飼育ケースを持って、公園に向かう。
炎天下の公園は、だれもいなかった。
どこか、異世界に迷い込んでしまったような感じがした。
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スコップで、埋葬する穴を掘る。
あれは、誰の論文だっただろうか。
比較文化論か何かの文脈も中で、世界のどの地域・民族・文化でも共通するのが、「死者を弔う」という習慣である、と。
そんなことを、学生時代に聞いたような記憶がある。
レヴィ=ストロースあたりの文章だっただろうか。
もう、よく覚えていないが、そのことは、どこか印象に残っている。
死者を埋葬したり、火葬したりするのは、感染症や疫病への対策という現実的な側面があるとも聞く。
それもまた、真実味のある話だ。
されど、人類は狩猟採取生活をやめて、農耕を始め定住したことから、感染症との戦いが始まったとも聞く。
では、狩猟生活をしていた時代は、死者を弔うことはなかったのだろうかと言われれば、決してそうでもないように思う。
万物に霊威を認めるアニミズムの世界に生きる彼らは、やはり丁重に死者を弔ったのではないかと思う。
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余計なことを考えて手が止まると、早く穴を掘るんだ!と息子から指示が飛ぶ。
その息子にとっては、何回目かの、夏との別離。
別離に慣れる、ということは、あるのだろうか。
息子よりも多く別離を経験しているはずの私だが、どうにも慣れないようにも思う。
飼育ケースの中の土も使って、二つの穴を埋めていく。
息子と一緒に、手を合わせる。
「バイバイ。また、あの森で会おうね」
再び会えることを信じてやまない息子にとって、別離とは慣れる類いのものでもないのかもしれない。
「また、会おうね」
私も、そう繰り返した。
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帰り道の陽射しも、強かった。
けれど、少し久しぶりに、走りたくなった。
真昼間に30分ほど、川沿いの木陰を選んで走った。
10代のころは、部活動で一日中走り回っていたが、なぜ平気だったのだろう。
いまより、もう少し暑さが緩かったのだろうか。
それとも、若さゆえ、だったのだろうか。
よく、分からない。
ことさらにゆっくりと、いつものコースを走り終えた。
汗は、とめどなく流れた。
それもまた、生きている証のようにも思えた。