昨日書いた「別離と不在」についての続きを。
先週末から続く雨の影響か、今朝の名古屋は涼しいというよりも肌寒いくらいだった。
ここのところ残暑という言葉を見かけなくなった。
おそらくいままでの中でも最も暑かったと思われる、40度を越えるような猛暑の夏とも、別れを告げる季節のようだ。
「別離」と「不在」は、やはり寂しい。
今年の暑い夏の思い出をたどると、なおさら感傷的になる。
それでも、来年になればまた夏はめぐってくる。
何も失われてはいないし、陰陽を経てまた季節は戻ってくる。
それなのに、いったいこの喪失感と寂寥感は何なのだろう。
大切に握りしめていた何かが、掌を開いたら影もかたちも見えなくなっていたように、夏との「別離」は、いつも私の心に「不在」という穴をそっと空ける。
もどってきたり、まためぐってくる夏にしても、「別離」と「不在」がある。
人にしても同じで、またいつか会える人でも、いつも「別離」は寂しく、「不在」という穴を空ける。
そう考えると、「また会えるかもしれない別れ」と「もう会えない別れ」との間に、大きな差はないのかもしれない。
本人はまた会えると思っていても、二度と顔を合わせることなく時が過ぎ去ることもあるだろうし、
もう会えないと思っていても、何かの折にふれて故人を思い出したり身近に感じたりすることもあるだろう。
最近つとに、そこに大きな違いはないように思う。
大切な家族を失う、
心の拠りどころだった風景がなくなる、
失恋する、
夢が打ち砕かれる・・・
「別離」とそれによる「不在」は、そういったある何か特定の痛みとしてあらわれる。
そうした「特定の痛み」にのたうち回ることもあれば、痛みを抑え込んで感じないようにすることもあるかもしれない。
人の身体は、深い傷でも長い時間をかけて修復していくように、心の傷もまた時間を重ねることで修復されていく。
そうした「特定の痛み」の癒しは、誰でも経験していくのだろう。
愛していたペットの死の痛みを癒す、
故郷の原初風景を喪失した痛みを癒す、
失恋の痛手から立ち直る、
打ち砕かれた夢の欠片を拾い集める・・・
そうした癒しの過程の先で癒されるのは、すべての痛みの根底にある痛みである。
人は、母親の胎内から切り離された瞬間から「孤独」という感情を抱えるというが、癒しの過程で最終的に残るのは、こうした絶対的な「孤独」と呼ぶべきものなのだ。
誰もが自らの奥底に抱えている、絶対的な痛みとしての「孤独」。
人は、日常の中ではそれに目を向けないようにやり過ごしている。
けれど、時に起こる「別離」と「不在」は、それを否が応にも思い出させてくれるのかもしれない。
私は孤独だ、と。
その痛みに触れるとき、私たちは生まれ落ちてから今までずっと抱えてきた「孤独」に触れるのかもしれない。
そうした「孤独」に触れているとき、私たちの心は過去と未来へと霧散する。
楽しかった過去を思い出すのもつらいとき、
あるいはもう会えない未来を考えるのが怖いとき、
私たちの心は「孤独」の痛みに触れて、おののいている。
そうしたとき、私はいま現在に注意を払うようにしている。
いまこの瞬間は、私にとっては安全な場所だった。
たとえどうしようもなく過去が辛かったり、未来を考えると死にたくなっても、
いまこの瞬間は、私は息を吸い、吐いている。
死にたくなっても、どうしようもなく落ち込んでも、いまこの瞬間は、安全だった。
母が亡くなってから一月あまり経った時分、私はお寺の境内にいた。
晩春の暖かな平日の昼間、染井吉野よりも濃い色の花をつけた古いしだれ桜が、周りをピンク色に洗っていた。
母の死を振り返ると、私はいつもあの暖かな囲炉裏のようなしだれ桜を想い出す。
それは過去の出来事でも未来の想像でもなく、ただこの瞬間、眼前にしだれ桜があるだけだ。
そこには、「別離」も「不在」もないのかもしれない。
「別離」とは過去のことであり、
「不在」とは未来のことであるかもしれない。
そして、いまこの瞬間には、「別離」も「不在」も存在しえない。