「私の両親は幸せな人生を送った」
と信じられることが、
「その両親から生まれた私も、幸せな人生を送ることができる」
と信じられることにつながる。
両親の人生を肯定する、という事と
自分の人生を肯定する、ということは同義だ。
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まだしぶとく私が毎日写経を続けている、チャック・スペザーノ博士の「傷つくならば、それは愛ではない」の一節から引用したい。
「自分が両親の期待どおりでないと思うのは、両親があなたの期待どおりでなかったということ」
多くの人が親の期待にこたえられなかったと信じ、いつも自分には足りないところがあると感じています。なかには完璧主義になる人もいれば、いよいよ不十分だという気分にとらわれ、はては満足のいくことは何ひとつないとノイローゼになってしまう人もいます。
はなたが両親の期待どおりでないと信じているとすれば、本当は両親があなたの期待どおりではなかったのです。あなたは彼らが親として十分でなかったと感じているのです。あなたにこうした態度があるかぎり、両親の実際の言動がどうであれ、あなたは自分が両親の期待どおりの子供ではないと感じるづけることでしょう。
うん、耳の痛い話である。
心の世界を覗いていくと、原因と結果がパッと見えるそれと逆の場合がある。
仕事のミスを上司に叱責されたから、落ち込んだ気分になる。
気になる女性二人で会う約束を取り付けたから、浮かれた気分になる。
ジトジトした雨が続いていて、なんだかスカッとしない。
アイドルのコンサートが週末にあるから、ワクワクが止まらない。
こうした表現は一見普通に見えるが、実は原因と結果が逆なのかもしれない。
落ち込んだ気分になりたいから、上司に叱責されてみる。
浮かれた気分を選ぶから、あの女性とのやりとりがうまくいく。
スカッとした気分にはなりたくないから、雨を気にしてみる。
ワクワクしたいから、コンサートのチケットを予約する。
いい気分もイヤな気分も、それを選んでいると考えることができる。
多くの人にとって、両親との関係は人生の前提に大きなウエイトを占めるが、そうした関係においても同じようなことが言える。
とかく両親との別離が人生のキーストーンである私にとっては、どれだけ別離が悲劇に見えようとも、
両親は最高に幸せな人生を送り、寿命を全うすることができた。
と肯定することができれば、自分の人生をも深く肯定することができる。
ところが、いろんな外界からの刺激で自分を否定したくなるとき、
両親との別離は悲劇のように見え、抜け出せない泥沼に嵌ってしまう。
これは、私の人生において絶えず向き合い続けなければならないものなのだろう。
自らの価値を否定したくなったとき、
自分の魅力を受け取れなくなったとき、
自己否定のスパイラルに陥ったとき、
どこまでも大切な人との別離が思い出され、
古傷がうずき、孤独を求め、
心は閉じてしまう。
つまりは愛を、受け取れなくなってしまう。
これはもう、15年間染み付いたパターンだ。
もはや「それも私」だと、経過観察をするように気長に付き合っていくしかない。
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さて、せっかくなので紹介した一節に対するスペザーノ博士の処方箋も含蓄が深いので引用してみたい。
「今日のエクササイズは三つのパート」
目を閉じてください。パート1は、まずあなたが子供のころ、両親はどんな様子だったかを思い浮かべます。そして「両親は親として完全に失敗者だ」と信じて両親を見てみましょう。こうした見方をすると、あなたはどんな感じがするでしょうか。
パート2は、同じころの両親を想像します。今度は同情とあわれみをもって両親を見て見ましょう。両親はあまり成功しませんでした。いまやあなたは両親を超え、そんな彼らを悲しく感じています。気づいてください。このような立場であなたは何を感じるでしょうか。自分自身についてはどう感じますか。
そしてパート3です。両親の様子はあなたが子供のころのままです。今度は、両親もいろいろなことがあったにもかかわらず、最善をつくしてきたという見方をしてみましょう。外面的にも内面的にもそのような状況におかれた両親を見たとき、あなたはどう感じるでしょうか。自分自身についてはどう感じますか。もし忠実にこの実験をやってみたなら、両親い対するあなたの態度いかんで、あなたが両親をどう経験するかが決まることがわかってくるでしょう。あなたの態度がもっとも望ましい成果を生みださなかったのなら、もう一度選択しなおすことができるのです。
最後にもうひとつのパートがあります。あなたには特定の目的があって、そのために彼らを選んだのだということを想像してみましょう。あなたの意識のもっとも重要な部分でありながら、まだひとつに統合されていないので、他の人に投影してしまうところを、両親が映しだしてくれているのです。そこを癒し、橋を架けて統合するためにあなたが生まれてきたのだとしたら、と考えてみてください。あなたが学ぶべきレッスンを行うのに最適な人々として、あなたが彼らを両親として選んだのです。今度はどう感じますか。自分自身についてはどう感じるでしょうか。
両親への恨み辛みを吐きだして責めきり(感情の解放)、
そうせざるを得なかったと理解し(感情的理解)、
私が選んだから、私のために来てくれた(感謝)、
両親も私も全てが肯定されていると感じる(恩恵を受け取る)。
そのプロセスは、「許し」と呼ばれるものそのものだ。
ただそれは、一回通っただけで解決するものでもない。
何度でも何度でも、かさぶたが剥がれて沁みる傷口が現れるたびに、通ることになるプロセスなのだろう。
「私の意識のもっとも重要な部分」も、そのプロセスの中で見えてくるのだろう。
まだまだ、これから。