親が与えてくれなかったと感じるものは、実は自分が周りの大切な人に与えられるものです。
それは、世界に与える「贈りもの」でもあります。
問題や悩みから才能を見る視点とあわせて、お伝えします。
名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.人生の目的を生きられるかどうかは、どのくらい両親を許して統合できるかによる
人生の目的を生きるということは、かならずしも「何をするか」ということではありません。
あながどういう「あり方」「生き方」をするかなのです。
両親を許し、与えるほど、あなたは贈り物を与えることになります。
その贈り物によって自由になり、人生の目的は何なのかを学ぶことができるのです。
どちらに対しても同じように愛と調和を感じられるように、両親のバランスをとっていきましょう。
するとあなたの心のなかで、両親が象徴している正反対の二つの性質を統合することができるのです。
両親を許し、それぞれの愛情のバランスがとれたとき、あなたは人間関係と仕事の面とのバランスがとれるようになります。
あなたのなかで両親を統合していくにしたがい、どんどん創造的になっていきます。
どちらの親もあなたにとってはかけがえのない宝物なのだということに気づき、自然にあなたから両親へと手をさしのべるようになることでしょう。
思いだしてください。
「両親が与えてくれなかった」と不満に思っているものは、じつはあなたのほうから両親に与えるものだったのです。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.333
2.両親との関係と許し、そして才能の関係
両親との関係性と「許し」について
心理学を学んでいくと、多くの問題の根源が親との関係にあるという見方を知ります。
幼少期に満たされなかったもの、その不足感や痛み。
そうした不快な感情を感じるのがイヤで、それを抑圧して、自分だけでがんばろうとする。
それがこじれていくと、自分を苦しめることになっていく。
これを読んでいるあなたも、ご存知かもしれません。
またその話か…と思われたかもしれません笑
もちろん、その溜まってしまった、こじれてしまった想い、それと向き合うことは、一つのアプローチの方法です。
「許し」、もしくは「手放し」と呼ばれるものです。
まずは、封印してしまったその感情を、開くことから始まるのでしょう。
それを感じるのは、とても怖いものです。
けれども、「感情には時間の概念がない」といわれるように、どれだけ時間が経っても、感情を感じることができます。
そうして、抑圧してしまった感情を感じていくと、ふっと力が抜けたような、肩の力が抜ける瞬間が訪れます。
ここではじめて、そのときの両親の心情を推し量ることができるようになります。
あのとき、ああ言われてとても傷ついたけれど、当時の父親もまた、苦しかったのかもしれない、といったように。
そうすることで、誰かを悪者にすることなく、過去の痛みや傷を昇華していくことができます。
もちろん、「許し」や「手放し」は、そんな簡単にできるものでもなく、進んでは戻り、引いては進む、という紆余曲折をたどるものです。
また、許せた、手放せたと思っても、また執着やネガティブな感情がぶり返してくるのも、よくあることです。
私自身も、さんざん両親との関係と向き合ったり、いろんなワークをしたり、セラピーを受けたりしてきましたが、まだまだ道半ばです。
きっと、それは生きている限り、続くのでしょう。
ただ、「許し」や「手放し」というものが「ある」ことを知っているのは、大きな財産だとは思っています。
不足感と、才能
何度もこのブログで書いているテーマですが、その人の問題や悩みと、その人の才能との間には、密接な関係があります。
なぜなら、人は自分にとって大切なものにしか、悩まないからです。
それが人生をかけた問題、あるいはどうしても頭を離れない悩みであればあるほど、その人にとっての大切な領域なのだといえます。
それを、今日のテーマに置き換えてみると、「両親に与えられなかった不満感とは、自分が誰かに与えられる才能を示している」といえます。
与えられなかったと感じるものは、それを与える才能を持っている。
これは、カウンセリングでも本当に頻出するテーマの一つです。
え?と思いましたでしょうか。
何言ってんの?と思われたでしょうか。
言葉足らずだったかもしれないので、少し補っていきますね。
まず、与えてもらえなかったと感じるということは、すでにそこに価値があります。
なぜなら、「足りない」と感じることは、それが「ある」状態を知っているからです。
「あたたかく安心感のある家庭」がなかったと感じるのだとしたら、それは「あたたかく安心感のある家庭」の価値を知っています。
そこに価値を見ない人は、別に気にならないことでしょう。
「え?そんなの、みんなほしいものじゃないの?」と思われるかもしれません。
けれども、そうじゃないんです。
自分にとって、当たり前にほしいものは、誰かにとっての当たり前ではありません。
そこに不足感を覚えること、それ自体に、価値があるわけです。
そして、さらにもう少し深く見るならば。
それは、「自分の周りの人に与えられるもの」でもあるわけです。
その価値を最も知っているからこそ、どうやって与えたらいいのか、いつ与えたらいいのか、どんな形で与えたらいいのか、誰よりも知っているからです。
「え…満たされていないのに、与えるの?なんて苦行な…」と思われますでしょうか。
決して、そうではないんです。
不思議なんですが。
与えるほどに、満たされるんです。
それが、あなたにとって、ほんとうにほしいものであればあるほどに。
それは、自分らしい才能を輝かせるときの多幸感、とでもいえます。
人の心の、ほんとうに不思議で、美しいなと私が思う部分です。
これを、誰かから満たしてもらおうと、外側に目を向けると、なかなかうまくいきません。
親が与えてくれなかったと感じるものは、実は自分が与えるものである。
そして、それは世界に与える「贈りもの」であるといえます。
3.生とは「贈りもの」
このブログを読んでいるあなたは、今日を生きています。
(あ、幽霊さんは、いらっしゃらないですよね…(汗))
今日を生きている。
それは、あなた自身の、生きる力があるゆえです。
一時も鼓動をやめない心臓、身体中をめぐる血液、あるいは絶え間なく空気を入れ替える肺…そのいずれが止まっても、このブログを読むことはできなくなるのでしょう。
あなたには、いまこの瞬間を生きる力がある。
それとともに、生かされている力もまた、そこにはあります。
あなたが生を受けたということは、
今日この日の生とは、生きているともいえるし、生かされているともいえる。
そのどちらが欠けても、今日の日の生は、ありません。
そう考えてみると。
生とは、義務でもなければ、権利でもありません。
父と、母と。
世界中のどんな人であれ、その二人から生を受けているはずです。
もちろん、今日この日まで、生の歩みを止めなかったのは、あなたの生命の力であり、輝きです。
生とは、義務でもなく、権利もない。
生とは、一つの「贈りもの」です。
「贈りもの」には、二つの意味があります。
それは、あなたが授かったものである、という意味。
そして、それは世界に与えるものである、という意味。
後者の意味が、今日の引用文でいうところの「人生の目的」なのでしょう。
それを「天命」、「お役目」、「ライフワーク」といった名前で呼んでも、かまいません。
こうした言葉を並べると、どうしても「何をするか」という視点に偏りがちですが、決してそうではありません。
ただただ、あなたがそこにいること。
あなたが、あなたでいること。
それが、周りに与える限りない「贈りもの」であり、ギフトであり、恩恵です。
そもそも、人は生まれてきただけで、いいのですから。
それ以上も、それ以下もありません。
生とは、権利でもなく、義務でもなく。
生とは、「贈りもの」である。
そんなことを、文章で、そしてカウンセリングで。
これからも、お伝えしていきたいと思っています。
今日は、親との関係と才能、そして生という「贈りもの」というテーマでお届けしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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