なにかに「痛み」を感じるとき。
それは、何がしかの自己否定が、そこにあることのサインです。
自分を肯定することは、そうした「痛み」から自分を解放することでもあります。
名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.痛みとは、自分への否定的な思いにしがみつくためのエネルギー
痛みを手放す準備ができると、自然に自分に関する否定的な思いや自己概念が変わってきます。
さらに痛みが消えてなくなるまで感じつくすという意思があれば、あなたを制限しているエネルギーも解放されていきます。
そして、否定的な自己概念を手放したとき、簡単に痛みから自由になるでしょう。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.243
2.「痛み」と自己否定の関係について
今日のテーマは、「痛み」についてでしょうか。
タイトルにもある通り、「痛み」とは、自己否定にしがみつくためのエネルギーであるようです。
身体的な「痛み」と、心理的な「痛み」
「痛み」には、身体的なものと、心理的なものがあります。
いずれの「痛み」も、非常に個人的な、パーソナルなものであるようです。
ただ、身体的な「痛み」は、ある程度、表現することができるかもしれません。
家具に足の小指をぶつけた痛み。
指を骨折した痛み
尿道結石の痛み。
そうしたことを経験したことのある方は、「あぁ、あれくらいの痛みか」と、なんとなく他人の痛みを想像することはできるかもしれません。
もちろん、その想像と本人の痛みが同じかどうかは、まったく分からないのですが。
ただ、その「痛み」をなんとなく、想像することはできそうです。
あるいはもしかしたら、脳科学が進歩して、「痛み」を感じさせる物質がどれくらい出たか?を数値的に解析できる日が、来るのかもしれません。
しかし、ひるがえって心理的な「痛み」は、厄介です。
身体的な「痛み」以上に、他人のそれを想像することは、難しいようです。
あることが、本人にとっては非常に心を痛めることだったとしても、その他の人にとっては、まったく痛みを感じないことだって、あるのでしょう。
同じニュースを見て、反応が違うように。
どうやら、心理的な「痛み」は、私たちのあり方、ありようそのものと関係があるようです。
「痛み」と自己否定の関係
さて、そのようにして考えたとき、心理的な「痛み」は、自分のあり方と非常に密接な関係があるようです。
言い換えれば、自分が自分をどう扱っているか、セルフイメージといったものと、関係しているようです。
ごく単純な例でいえば、誰かに何かを言われて傷ついたとしたら、自分のなかに、それを否定的に見ている部分があるといえます。
たとえば、
「あなたって、本当に男性なのに細かいことばかり気にするのね」
と言われたとして。
「そうだよ、だからいまの仕事ですごく役に立ってるんだ」と平然としているのか、
「あぁ、自分は周りの男性と比べて、劣っているんだ」と落ち込むのか。
「細かいことを気にする」という部分を、自分が肯定的に見ているのか、否定的に見ているのかによって、180度違ってくるわけです。
もう一つ別の例を。
就職試験、というものがあります。
かつての私も、受けた時代がありました。
しかし、何社からも内定をもらう人もいれば、どこを受けても「お祈り」メールが届く人もいます。
当時の私は、後者でした。
毎回毎回、「お祈り」されるのは、社会から必要ではないと言われているような気がして、非常にメンタルがしんどかったのですね。
しかし、私の友人の一人は、そうではありませんでした。
同じようにボコボコと落ちていた友人ですが、そのことに心を痛めている様子もありません。
「まあ、しゃあないんちゃう?」
平然と、その友人は雀荘で煙草の煙をくゆらせていました笑
それがいい/わるいという話ではありません。
同じ事象が起きても、なんとも思わない人もいる。
けれど、そこに自己否定があると、傷つくわけです。
「会社に求められないような私は、価値がない」と、私が考えていたように。
上の例は、あまりにも単純化した例かもしれません。
けれども、心理的な「痛み」を感じるとき、それは自己否定をしていることと関係はありそうです。
すなわち、自分で自分を否定している部分にこそ、「痛み」を感じる、と。
3.「痛み」が消えるとき
自分を肯定することは、なぜ大切なのか?
「痛み」は、自己否定と密接な関係がある。
自分で自分を否定していると、それを感じさせるできごとに遭遇したときに、ひどく傷ついたと感じる。
しかし、それを逆から考えることもできそうです。
つまり、自己否定が「痛み」の原因ならば、自己否定がなくなったとき、「痛み」もまた消える、と。
これが、引用文でいわれていることですね。
否定的な自己概念を手放したとき、簡単に痛みから自由になるでしょう。
自己否定をやめること、自分を肯定すること、愛することの大切さは、いろんなところでいわれます。
そうしたことが、なぜ大切なのか。
その一つの答えが、今日のテーマですね。
それは、「痛み」から自分を解放し、自由に生きることを許せるようになるから、です。
さらに痛みが消えてなくなるまで感じつくすという意思があれば、あなたを制限しているエネルギーも解放されていきます。
自分を肯定することは、「痛み」から自分を解放してくれる。
それは、自分を縛っていた諸々の制約から、自分を解放することでもあります。
自己否定をやめ、自分を肯定するほどに、自由に、自分らしい生き方をする選択ができるようになる。
こうして言葉にしてしまうと、すごく当たり前のことに聞こえますね笑
でも、当たり前に見えることに、真実は宿るのでしょう。
喪失や別離の「痛み」も、そうなのか?
さて、ここまで書いておいて、何なのですが。
少し、いまの時点の私では、分かりかねることも書いておこうと思います。
「痛み」のなかには、喪失や別離といった経験による「痛み」もあります。
愛する家族を喪った。
大切なペットと死別した。
そういった「痛み」もまた、自己否定をゆるめることで、和らぐのでしょうか。
直感的には、何かを失う(喪う)という痛みは、人にとって先天的に備わっているもののように感じるのですが、どうなのでしょう。
別れや喪失といったことは、私のなかでコアなテーマです。
それだからこそ、「痛み」がなくなることを信じられないのか。
どうなのでしょう。
いまの私は、答えを持ち合わせていません。
これから自己否定をゆるめ、自分を肯定していく過程で、その「痛み」の変化を、私も見つめていきたいと思っています。
いつの日にか、「こうだったよ」とお伝えできればいいな、と思っています。
今日もここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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