ものごとを抽象化してみるということは、結構大切なことのように思う。
自分の嬉しかったこと、楽しかったこと、ワクワクしたこと・・・
そんな出来事を抽象化してみると、自分の心の琴線という目に見えないものが具体的になってくる。
たとえば、学生のときに吹奏楽の部活で、出場したコンクールで賞を取ったことが嬉しかった経験があったとする。
その経験が、「なぜ」嬉しかったのか、「何が」楽しかったのか、それを突き詰めていくと、自分が「楽しい」「嬉しい」と感じることが具体的に分かってくる。
仲間と一緒に濃密な練習の時間を過ごしたのが楽しかったのか、
コンクール本番の緊張感の中で演奏するのが楽しかったのか、
自分の努力が賞という目に見える評価になったことが嬉しかったのか、
コツコツと練習して自分の技量が上がるのが楽しかったのか、
演奏した曲が大好きだったのか、
それとも演奏する楽器そのものに惚れていたのか、
「好き」を分解していくと、いろんなポイントに分かれていく。
そのポイントは一人として同じことはなく、十人十色、千差万別である。
しかし、自分のポイントを分かってくると、今度はそのポイントが体験できるものをどんどん追い求めることができるようになってくるように思う。
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さて、私は美味しいものを食べることも好きだが、料理をすることも好きだ。
好き、といっても簡単な料理をする程度ではあるが、先週末は急に寒くなってきたので、おでんをつくってみた。
美味しいおでんの基本は、美味しい出汁から。
いい昆布出汁が取れていると、それだけで満足できる。
おでんの主役は、昆布だとひそかに思う。
少し刻んで、水に浸して30分。
美味しくなーれ。
もう一つの主役のゆで卵をつくる。
固ゆでにするために、沸騰してから15分ほどクツクツと煮る。
こんにゃくも下茹でして、三角に切りそろえる。
あんまり切り揃っていないのは、気のせいである。
そしてこれも主役、大根。
輪切りにして厚めに皮をむき、十字に隠し包丁を入れ、面取りをする。
面取りは皮むき器ですることを覚えたら、格段に早くできるようになった。
文明の利器バンザイ。
切りそろえたら、大きめの鍋で下茹で。
そしてこちらも主役、牛すじ肉。
ネットでこの牛すじ肉を使ったおでんのレシピを見つけてから、これを煮込むようになったが、いい出汁が出るんだ。
牛すじ肉を一口大に切っているあいだ、フライパンにお湯を沸かす。
牛すじ肉投入。
灰汁が出るが、気にせずにグツグツと茹でる。
10分ほど茹でたら、このままシンクへ持っていき、お湯を流す。
流したら、ぬるめのお湯を入れて肉を揉み洗いする。
これを3回ほど繰り返し、お湯が濁らなくなったらざるにあげ、水分を切る。
ぴかぴかの牛すじ肉を、竹串に刺していく。
固い肉も時間をかけるほどに美味くなるのは、人間関係と同じか。
昆布がいいころ合いになったので、火をつける。
沸騰する前に昆布を引き上げ、鰹出汁を引く。
黄金色の液体。
これだけで酒が呑めそうだ。断酒中だけど。
関係ないのだが、出汁を「引く」という表現は素敵すぎる。
引いた出汁に、醤油、酒、砂糖、塩を適量入れ、牛すじ串を煮込む。
ポコポコと鍋底から気泡が上がるくらいの火加減で、1時間ほど。
途中で表面に浮いてくる脂をすくうと、透き通った出汁になるのでがんばる。
1時間ほど煮たら、大根、たまご、こんにゃくを入れて、さらにもう1時間煮る。
クツクツ、クツクツ・・・
途中で具を崩さないように、鍋底にいる具と表面にいる具を入れ替えながら煮る。
ここで一晩寝かせると、味がしみ込んでたまらなく美味くなる。
食べる前に、練り物を入れて温めて、出来上がり。
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料理が好きな人にもいろいろな人がいると思うのだが、私は「料理をさらに美味しくつくる」ことを研究する方向には、あまり興味がないようだ。
だから「美味しい料理をつくる腕」という意味では、あまり上がっていかないのかもしれない。
その代わり、レシピを再現することや、その工程をいかに効率的に作業するか、いかに作業しながら片づけをするか(料理の完成と同時に洗いものも終わって片付いている、といのが私の美学だ)、ということに面白さを感じる。
先にお湯を沸かして、それと並行して材料を切って、このボウルを洗って・・・
そんな段取りを考えながら遂行するのが、どうも楽しいらしい。
「食べる」ことと「つくる」ことの違いなのだろうか。
そんなことを考えながらクツクツと煮るのは、楽しい時間だった。
料理はいい。
また時間を見つけて、料理をしよう。