遠足は行くまでが楽しい。
私がそのことに気づいてしまったのは、いつごろだろうか。
前夜のワクワクがピークで、出発してしまえば、あとは帰るまで一瞬だ。
そうして気がつけば、
いつもと同じ帰り道で、
いつもと同じオレンジ色の夕陽を背に、
いつもよりもおおきなカバンを背負った友だちと、
バイバイと手を振っている。
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楽しければ楽しいほど、キックバックはおおきくなる。
おうちに帰ってきてから、あぁ、もう終わってしまったんだな、という寂寥感とロスに、何度も寝返りを打つ。
感じてしまったものは仕方がないので、感じ尽くすしか手はないのだが、幸いにして不惑近くまで私が生きてきた中で、この寂寥感とロスを軽減する方法が一つある。
次の遠足の予定を入れてしまうことだ。
「次の遠足がいつかある」ということは、それまでの時間を喜びと楽しみに変えるのだ。
それが3ヶ月後だろうと、1年後だろうと、10年後だろうと、あまり関係ない。
いや、次の遠足の日程が決まっていなくても、
「どうせ私はまた行くんだし」
と「決めて」しまえば、同じことなんだ。
そう考えると「遠足の日取り」はすぐそばになるよりも、遠く離れている方が楽しいのかもしれない。
行くまでが楽しいのだから。
どれだけ実現しがたいような遠足でも、「どうせ私は行くんだから」と決めてしまえば、これから先の道は、すべて楽しみと喜びになる。
もちろん、遠足の目的地が変更になってしまったり、持っていくおやつの種類に頭を悩ませる必要があったり、ときにはよりによって大嫌いなアイツが行きのバスの座席の隣になってしまったり、自由行動の時間の行き先で班内で大モメしてしまったり、そんなこともある。
それでも、総じて遠足というものを楽しんでいることには変わりない。
次の遠足に行くことを「決めて」しまうことは、そこから先の日を楽しみと喜びに変える。
そして、その日取りは遠いほうがいい。
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さて、お察しのように「遠足」は比喩であり、何かの暗喩だ。
あなたにとっての「遠足」は何が思い浮かんだだろう。
叶えたい夢、大きな希望、達成したい目標、至福の時間、最高のパートナー・・・
それもそうだろう。
叶わなそうな夢ほど、
できるかぎり大きな希望ほど、
達成しがたいような目標ほど、
描くのも恥ずかしいような至福の時間ほど、
今生では出会えなさそうなパートナーほど、
人生にとってはご馳走なのかもしれない。
「遠足」は、遠いほど楽しめるのだから。
だれにも真似できない壮大な「遠足」を描こう。
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それはそれとして。
もしもこの肉体とお別れする先も、「遠足」だとしたらどうなんだろう。
今日はそんなよしなしごとが、ふと浮かんだ。
どうせ解脱するんだし。
そのとき、今までお世話になった身体や、思考や、執着を手放して、光に包まれるのかな。
あらゆる想い出、あらゆる感情。
それも過ぎ去ってしまったこととして、わたしの、世界の一部になる。
リラックスして、あるがままに揺蕩いながら、光り輝く時間。
いや、時間という概念すらないのかもしれない。
ただその人の本質である光に還るだけ。
もしそうだとしたら、ずっとその「遠足」を行くまでの楽しみと喜びの中に、私たちはいるのかな。
完全なる別れなどありはしないし、
完全な断絶などないと分かっていれば、
寂しさもまた偽りだ。
いや、偽りや真実という区別もなく、
ただ溶け合って混じり合うやわらかな光の中にいるのかな。
いま、この時間もまた、そうなのかもしれない。