昨日のエントリーで、夏の寂寥感について書いた。
すなわち、夏が孕む寂寥感というのは、「夏至を過ぎて、太陽の力(=生命力)が失われていくことへの根源的な怖れ」なのではないか、と。
そこからもう一歩、考えを進めてみると、「なぜ、失うことが怖いのか」という問いが出てくる。
失うことへの怖れとは、何だろうか。
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何かがなくなること、
誰かと別れること、
いままであったことが失われること…
何かが失われることは、私にとって恐ろしいことであり、また胸が痛むことである。
それは、父と母との突然の別離から由来すると思うのだが、どうもそうでもないように感じる。
それは「原因」ではなく、あくまで「きっかけ」に過ぎないのではないか。
単にもともと持っていたものが、その「きっかけ」を経て、露呈していくだけ。
もちろん、こうした怖れを、持たない人もいるだろう。
なくなること、失うこと、あるいは別れることよりも、
新しいこと、出会うこと、得ることの方に目を向けることができる性質の人。
それはどちらがどうという話でもないが、どちらかに偏り過ぎると、色々と弊害が出てくるのだろう。
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学生時代に、よく訪れた料理店があった。
複数の路線が乗り入れする私鉄の駅から、線路沿いの大通りを少し歩いて、脇道に入ったあたりにあった。
学生時代に行けるくらいだから、高級店ではない。
それでも、小洒落た中にも落ち着いた雰囲気と、家庭的なサービスが心地よくて、何度か通った。
就職してその地を離れると、なかなか再訪する機会もなかった。
何年か経ったあるとき、Googleマップのストリートビューでそのあたりを眺めていた。
以前に何度も通った歩道橋や、喫茶店、高架下のスーパー…変わらない風景の中で、その料理店が見当たなかった。
自分の身体の一部がどこかに落としてきてしまったような感覚になり、あわててうろ覚えのその料理店の名前を検索する。
少し前に閉店してしまったということが分かる。
ずきん、
と胸のあたりが痛む。
その料理店と私の記憶も、戻らない過去の時間も、すべて独立した事象のはずなのに、なぜか私はそれを関連付けて考えてしまうのだ。
その料理店とともに、何か自分の中の大切なものが失われた、と。
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考えてみれば、おかしな話だ。
その料理店がなくなってしまったことに気付かなければ、失われなかったのか。
そうではないだろう。
あるいは、日々生きていく中で、さまざまなものが失われる。
自分の身体の細胞を構成するアミノ酸だって、わずか1か月程度で全て入れ替わると聞く。
あるいは、毎秒毎瞬、時間を失っているともいえる。
それに反応せず、何か特定の事象に反応するというのは、やはり私の中の何がしかの傷が反応しているのだろうか。
それはよくわからないが、私の中で、失われることに痛みや怖れが結びついていることは確かなのだろう。
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さて、もともとの話は、季節の話からだった。
季節のことに置き換えて考えてみるならば。
過ぎ行く季節を惜しんだりすることはあっても、また季節がめぐってくることを疑って失れることはしないだろう。
同様に、失うということを肯定的に捉えることも、あるいはできるのかもしれない。
失うということは、再生への裏返し。
なくなるということは、またつくることができるということ。
別れるということは、また会えるということ。
そんな風に、少しずつ怖れを緩めていくこともできるのだろう。