大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

断酒日記 【273日目】 ~飲み会や会食の際の意識の変化について

さて、断酒して9ヵ月が経過した。

相変わらず淡々と継続しており、淡々と甘いものは欲しており、断酒自体による変化ということについてはネタがあまりない。

今日はサブタイトルにつけた通り、「飲み会」や「会食」に参加する際の私自身の意識の変化について綴ってみたい。

結論から書くと、「一緒に過ごす人に、私は何を与える人になれるだろうか」ということを考えるようになった。

断酒を始めたこともあるが、「飲み会」や「会食」に行く機会が以前に比べてとんと減ったように思う。

おひとりさまも好きな私であるが、やはり飲まないのに居酒屋などに行くのはお店に悪いような気がして、一人で飲みに行くのは顔見知りのお店以外はほとんど行かなくなった。

その代わり、喫茶店やカフェという新しい選択肢が入ってくるようになった。

それだけに、お酒を出す美味しいお店に行くとなると、誰かお酒を飲む方とご一緒させて頂くのが早道であるので、断酒していても「飲み会」や「会食」というのはありがたいものなのだ。

そんな最近であったが、どうもお誘いやアポイントというのは、1件入ると立て続けに重なる傾向にあるようで、先週はめずらしく「飲み会」や「会食」が何件か集中した。

断酒も9ヵ月になると、だいたいのお酒をめぐる交友関係の方への説明もひと段落するようで、もう「飲みに行きましょうか」からの「いや、実は…」というやり取りをすることもなくなった。

その代わりに、「少し聞いてほしい話があって」とか、「ちょっと美味しいもの食べに行きません?」といった誘われ方をするようになった。

「お酒」というフィルターを抜いて、「私」という存在そのものにお声をかけて頂いているような感覚を覚えるのだ。

もちろん、お酒を飲んでいたときも、そのようにお声がけを頂いていた方はたくさんいらっしゃったとは思うので、単に「私」の受け取り方の変化なのかもしれないが。

そうすると面白いもので、私自身の意識が変化するのだ。

「私はこの人に、飲み会や会食の時間で、何を与えられる人になろうか」と、会食までの時間に考えるようになっていた。

これは非常に微妙なところで、誰かに「期待」されると、やっぱり人は嬉しくて、どうしてもその「期待」に応えようとしてしまう。

そして、それが積み重なると、「期待」がないと動けなくなったり、ほんとうはやりたくもないのにそれをする義務のように感じてしまったりして、心をすり減らしてまで「期待」に応えようとしてしまうことがある。

誰もがよく陥るところの、「犠牲の罠」である。

そうした難しいさじ加減を分かった上で、なのだが、「自分は会食の時間に、相手に何を与えられる人になるのか」ということを考えることは、楽しい。

与えられるもの、とは、もちろん「お会計の伝票」…ではなくて。

「話を聞いてもらって、何かが解決したり、スッキリした」という、結果でもなくて。

私と会ったことで、 何を感じてほしいか、ということなのだろう、と思う。

それは「安心感」なのかもしれないし、

「楽しさ」かもしれないし、

「喜び」かもしれないし、

「つながり」かもしれない。

分かりやすい結果ではなくて、そうしたものの方が、私にとってはしっくりくるように感じる。

それは、「できる/できない」という話ではなく、「そういう人という設定」の話のように思うのだ。

さて、振り返って考えてみると、それは「飲み会」や「会食」の僅かな時間だけの話ではないだろう。

自分は、生きる上で出逢う人に、何を与えられる存在なのか。

それは、自分で設定できる。

逆に、設定しようと意識しなければ、なかなか与えることは難しいのだろう。

断酒は、やはりいろんなことを教えてくれるようだ。

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とある会食で訪れた、ホテルのバー。

ノンアルコールのカクテルが充実していて、さらにピアノから奏でられるビートルズのナンバーが心地よく。

飲まなくても、楽しい。