先日出た旅のなかで、豊橋市にあるのんほいパーク(豊橋総合動植物公園)を訪れた。
この公園を訪れるのは、ずいぶんと久しぶりだった。
3年ほど前、息子に「恐竜ブーム」がやってきた際に、恐竜に関連した施設を探していたところ、この公園が見つかって車を飛ばして初めて訪れた。
自分の抱えてきた心の闇、あるいは悲しすぎる出来事から抑え込んできた感情に向き合い始めた時期だったように思う。自分の好きなこと、心躍ることを探そうとしていた時期だった。
身近な人や関係性が近い人は、不思議と自分の必要なものを見せてくれるようだ。
息子は自分の好きなことに制限する私に、「あれを買え!これを買え!」といろんなテストをしてくれた。
甘やかすことになる?
それほんと?
自分の好きなことに制限をしているだけじゃないの?
あなたの好きなこと、なあに?
それ、本気でやりたいの?
いつも、そんな問いかけをしてくれていたように思う。
出かけるたびに増える恐竜のフィギュアやぬいぐるみは、いまでは「きょうりゅうクラスのしゅっせきぼ」を作って出席を取るくらい、息子と娘の大切な親友になった。
無駄遣いではないか?というお金への怖れ、
甘やかし過ぎじゃないのかという疑問、
我慢を覚えさせないといけないという思い込み・・・
そうしたものは、今でも私の中にある。
それでも、あの頃に小さな先生の教えに従ってよかったと思う。
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朝から微妙な空模様だったが、何とかギリギリ雨は降らずにもってくれた。
久しぶり訪れた公園では、息子の大好きなトリケラトプスが迎えてくれた。
併設されている動物園では、いろんな動物を愛でることができた。
山羊と一緒に戯れたり、
ふれあいコーナーでは、ハムスターの正式な名前が「テンジクネズミ」だと知ったりして楽しむことができた。
3年前に訪れた際に、息子が恐竜のフィギュアで遊んでいた公園。
こんなに小さかっただろうか。
人の記憶とは、かくも不確かなものだ。
お目当ての恐竜の展示やシアターがある「自然史博物館」へ。
大きなティラノサウルスの骨格見本が、見事な影をつくっていた。
シアターで短い恐竜の映画を観て、以前に訪れた際にフィギュアを買ったショップをのぞこうとしたときに、異変に気付いた。
フィギュアやおもちゃであふれていた、そのショップの棚がからっぽだった。
驚いて、その店内に足を踏み入れる。
なんと、そのショップは私が訪れた日で閉店だった。
あの息子の大切な友達の恐竜たちのふるさとが、なくなってしまう。
ずきん
と胸が痛んだ。
からっぽの胸に微かに残っていた、思い出の欠片が砕けるような感覚。
なぜ、こんな日に訪れてしまうのだろうか。
ふーん、と意に介さず、閉店セールになっていた玩具を手に取って物色し始めた息子を眺めながら、私はずきずきと痛む胸を抑えていた。
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何かがなくなること
誰かと別れること
いままであったことが失われること・・・
別離と喪失は、私にとって最も胸を痛め、また恐ろしいことの一つだ。
もちろんそれは、両親との悲しい別離も影響しているとは思うが、どうも考えてみるとその出来事の前から、ずっとそうだったのだ。
「二度と手に入らないもの」は、私にとって怖れの対象でもある。
その怖れからか、テレビゲームの「ファイナルファンタジー」では、クリアするまで「ラストエリクサー」はおろか、「エリクサー」すらも使うことができない。
けれど、この世界で起こっていることは、本来ニュートラルなはずで。
ものの見方、あるいは考え方で、その景色はいかようにも変化する。
失う、別れる、なくなるということに対して、こんなふうに考えることもできる。
永遠に別れることなどありはしないし、
失われたように見えて実はどこかに残っているし、
かたちを変えただけでいつかどこかで会えるのかもしれない。
そちらの方が真実のように思う。
いや、そうであってほしい、という潜在的な願望もあるのかもしれない。
いったい、完全なる別れなどあるのだろうか。
二度と手に入らないことなど、あるのだろうか。
永遠に失われることなど、あるのだろうか。
それは、よくできた幻想でなないのか。
「メビウスの輪」では、始まりと終わりは同じ場所にある。
別れも出会いも、
失うことも得ることも、
なくなることも見つかることも、
すべて同じで、等しく価値のあることなのではないか。
「別れの悲しさだけ、出会いは喜びとなる」というよりは、
別れも出会いも等しく悲しく、喜びに満ちているのかもしれない。
メビウスの輪を外から見るような、大きな視点に立ってみれば、別れも出会いも同じなのだろうか。
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人が最も怖れ、コンプレックスを感じる場所は、その人の最も豊かな天賦の才が立ちのぼる場所でもある。
なくなること、別れること、失うこと。
それは、私の最も怖れることであると同時に、最も豊かな才能があふれることなのかもしれない。
つながること、出会うこと、見つけること。
そうしたことを感じることのできる才能が、もしかしたら私にはあるのかもしれない。
怖れを抱いたまま、その才を見続けてみようと思う。
おそらくは。
あのショップの閉店日に私が訪れたことも、なにか意味があってのことなのだろう。
いまはまだ、その喪失感にずきずきと胸が痛む。
けれど、息子の大切な友達と出会えたことに感謝できる日が、いつか来る。
それは、きっと確かなことだと思う。
私の中にある痛みや怖れが大きい分だけ、必ず感謝できる日が来る。
怖れと痛みは、愛と感謝の裏返しなのだから。
大丈夫。またいつか会える。