その広葉樹の新芽が、なんだか気になった。
スマホに残った写真の日付を見ると、今年の年が明けてすぐの頃だったようだ。
まだ1月の寒風吹きすさぶ頃に、枝の間から顔を出してきた新芽に目を惹かれた。
「神は細部に宿る」というが、日常の中にこうした奇跡を見つけると嬉しくなる。
あぁ、こうやって新芽は顔を出してくるんだ。
私が生まれるよりもずっと昔から、こうして新芽は変わらずに命をつないできたのだろう。
いつしか、その新芽を眺めるのが私の楽しみになった。
盆栽を育てるのも、スマホのゲームでアイドルを育成するのも、似たような気持ちなのだろうか。
ときに雨の日も、その雫に濡れる葉の美しさを眺めながら。
日々の移ろいを眺めるというのは、楽しいものだ。
いつしか、立春を迎え、雨水、啓蟄を過ぎて、春の陽射しになっていった。
時間が流れるというのは、ほんとうに偉大な力が働いているように思う。
どうしたって、「かんたん」「すぐに」「おてがる」というフレーズに惹かれてしまうのが人情だけれども、「時間をかける」ということの力の偉大さを認識するのもいいことだ。
時間をかけようと決意すると、不思議とあっという間に成し遂げられるものだ。
卯月に入り、天地万物清らかな清明を過ぎたあたりで、新芽は一気にその姿を変えた。
自宅で息子が飼っているカブトムシのサナギも、先日一匹が羽化して成虫になったのだが、見ていると変化は一瞬だ。
ただ、それまで土の中で半年以上も過ごして、サナギになって神経以外の身体を全てどろどろに溶かして、じっと羽化を待つ膨大な時間が、その変化の前にはある。
一度、新芽から新しい息吹が世界に放たれると、あっという間に伸びていくようだ。
気付けば新芽は、今まであった古い葉と変わらない姿に変わっていく。
変化とは、そこだけを見ればあっという間かもしれないが、それが起こるまでの時間の長さは、傍から見ている分には分からないものだ。
少し違う場所の新芽。
こちらはすぼまったまま、天に向かって伸びようとしているようだ。
同じ木でも、枝や場所によって個性が出るものだ。
穀雨の頃。
新芽の枝の間から、さらに新しい芽が出てきて、生い茂ってきた。
新緑の季節、さらに新芽は風薫る青空にその手を広げていくのだろう。
自然の中のある一点の定点観測。
それだけでも、いろんな奇跡と真理を教えてもらえるようだ。
今日も、世界は美しい。