不思議なもので、いろんなことろで聞く話が同じことの違う側面のように感じることが増えた。
認知科学で言われるように、人間の認知というのはある種のフィルター(色眼鏡)がかかっており、それは当たり前の話なのかもしれないのだが。
青い色眼鏡をかけて世界を見るのか、
それとも赤いのをかけるのか。
それは自分で選べるものであり、そのために大切なのは、やはり「会いたい人に、会いに行く」ということだと改めて思う。
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息子と娘が保育園を卒園して、1か月が経った。
あらためて、いい保育園に通わせてもらったと感じている。
その中で、何度か女性の先生とお話しすることがあったのだが、深い、惹きこまれる瞳をされていた。
もう少し詳しくお話を聞いてみたいと思い、御礼かたがたお伺いして、お話しする時間を頂くありがたい機会を頂いた。
会いたい人に、会いに行く。
それは、どんな動機よりもパワフルで、心躍るものだ。
そんな経緯で、去る土曜日の園児が少ない時間に伺ったのだが、いろんな興味深い話が聞けた貴重な時間だった。
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- 今年入園した保護者には、「自分の子どもを、絶対に他の園児と比べないこと」と約束するため、指切りした。それをしないだけで、ほんとうに楽になる。
- 言ってみれば「普通の子」という考え方の眼鏡を外すだけで、ものすごく子育てが楽になる
- 園で過ごすのは、好きなことを好きなだけできるという人生の中でも貴重な時間。それを大人の都合で何かを「やらせる」よりも、子ども自身のやりたいことを好きなだけやらせるようにすることが、後々必ずその子の財産になる。
- 立場上、なかなか難しい話なのだが、地域的に習い事のビジネスが多いと感じる。「〇歳からの…」とか「誰々が習っている」とか、いろんな怖れや不安を煽る情報を集めるよりも、子どものやりたいこと、子どもの才能、子どもの長所を見てあげる方が、よっぽどその子にとってためになる。
- 子どもは、親がダメだと思っている面や、許せないと思っている面を見せてくれる。 それによって、自分の凝り固まった考え方を広げてくれる。
- 先生自身も、職業として子どもに接することはできるのだが、やはり我が子となると冷静な判断ができなくなる。それは、それくらい愛情が深いということの裏返しでもあり、子どもと接することの難しさでもあると思う。だれもが完璧な子育てなどできない。
- 巷で言われているように「自己肯定感」は大事。それとともに「誰かのために」という「自己有用感」が大切だと思う。
- 「ちょっと待って」という言葉を使わない。子どもがその言葉を使う以上に、大人はその言葉を使って子どもの時間を奪い、寂しい想いをさせているかもしれない。
- すべての教育は、家庭から。
などなど、話は尽きず、予定していた時間を大きくオーバーしてしまったが、結局どこへ行っても大切なことは同じなのか、と妙に納得した時間だった。
子育ては自分育て。
結局、 すべては自分に帰ってくるように思う。
そう思っていると、先に挙げた話の「子ども」を「わたし」に変える必要があると気づいてしまい、帰り道に一人悶絶した。
親の数だけ、子育ての方法論はあるだろう。
けれど、親が自分を誰かと比べず、怖れや不安から行動せず、好きなことをして自分の才能にフォーカスすることが土台になってくるように思う。
その根っこの部分を無視していたら、どれだけ綺麗な花を咲かせようとしても、難しいのかもしれない。
そんなことを改めて感じた、貴重な時間だった。
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それにしても、会いたい人に会って、直接話をするというのは、かくも大きなエネルギーをもらえるものだと思う。
また折りを見て、お話を伺いに行こうと思う。