昨年の夏の終わりから、息子とクワガタの幼虫を飼っている。
クワガタの幼虫の飼育というのは難しいらしく、私も少年時代にそう聞いていた。
しかし、今はこのような「菌糸ボトル」が普及しホームセンターで売られており、これに幼虫を入れて、定期的に菌床を交換するだけで飼育ができるようになった。
すごいことだ。
一緒に飼っていたカブトムシの幼虫は、すでに先月サナギになり無事に羽化したのだが、このクワガタの方が、なかなか音沙汰のない状態が続いていた。
サナギになるための蛹室のようなものをつくったまでは、ボトルの外側から確認できたのだが、いかんせんそれ以降、一月近く経っても姿形が見えない。
不安になる息子に駆られ、ネットで色々調べてみると、ボトルの口の部分に昆虫ゼリーを置いてみて、それでも出てこなかったら、掘ってみるとよい、という情報が。
その情報を頼りに、意を決して発掘することを決める。
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慎重に慎重を期し、発掘を進める。
俺にもやらせろ、と息子。
気を付けろとか、何とかギャーギャー言いながら、作業を進める。
クワガタよ、どうか無事でいてくれ。
臆病な私は、そう祈りながら手を動かす。
去年の夏の終わりから1年近く、一緒に過ごしてきたクワガタ。
息子が初めて飼育したクワガタ。
サナギから成虫になるのは、最もデリケートな時期で、全ての個体が無事に立派な成虫になれるわけではない。
分かってはいても、それを望んでしまう、私の身勝手さよ。
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蛹室と思われる空間には、何もなかった。
嫌な予感を禁じ得ず、それでもその奥へと掘り進める。
息子が声を上げた。
いた。
クワガタの背中が見えた。
喜ぶ息子、見せて見せてと覗き込む娘。
立派なスジブトクワガタのメスだった。
見た目は立派な成虫だが、餌を食べられるようになるまで、もう少し時間がかかるのかもしれない。
飼育ケースの中に入れると、すぐに敷いたチップの中に隠れていった。
満足げな息子は、その隠れたケースの底を、ずっと眺めていた。
その息子の姿を眺めながら、私の心は少年時代に戻っていた。
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今も昔も変わらず、カブトムシとクワガタは少年たちのヒーローだ。
だが、私の住んでいた実家の周りには、それらの虫が捕れるような場所がなかった。
あれは、いつの頃だっただろう。
誰かにもらったカブトムシが一匹、私の実家にやってきたことがあった。
息子と同じように、私も四六時中眺めていたが、当時は昆虫ゼリーなどもなく、すぐに死んでしまったように覚えている。
どうしても、カブトムシがほしい。
小学校高学年の頃だろうか、祖父の鉄工場に勤めていたある方が、カブトムシ・クワガタが捕れるとされる雑木林に連れて行ってくれることになった。
母か父が、私の願いを叶えようと、話しをつけて来てくれたのだろうか。
早朝だったのか、それとも夕暮れ時だったのか。
それすらも覚えていないのだが、その方の車で雑木林まで連れて行ってもらった。
虫に刺されながら、ずいぶんと長い時間、その雑木林を彷徨ったが、残念ながらカブトムシ・クワガタを見つけることはできなかった。
いまの息子を見るにつけ、当時の私は相当ガッカリしただろうと思うのだが、それほどネガティブな記憶がない。
父や祖父ではない大人に連れて行ってもらったことで、気を遣ったのだろうか。
その当時の小さな私を思うと、少し胸が苦しい。
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その後、親に言われたからだろうか、私はその方にお礼状の葉書を書いた。
連れて行ってもらったお礼とともに、図鑑に載っていたカブトムシが飛んでいる写真を真似して、挿絵を描いた。
後日、その方にとても褒められた。
カブトムシの絵が、とても上手く描けていた、と。
カブトムシが捕れなかった悔しさよりも、その褒められた嬉しさの方が、私の記憶に残っているのは、なぜだろう。
私が手紙を好きなルーツは、そのあたりにあるのかもしれない。
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息子は、相変わらずケースの底を眺めている。
それにしても、子どもというのは親がしたくてもできなかったことを叶えてくれる。
もしも、小さな私が、「いつか君は、カブトムシやクワガタを幼虫から成虫まで育てることができるんだよ」と聞いたら、どんな顔をするだろう。
どこかはにかみながら、嬉しそうな顔をするのだろうか。