「自己価値」と「自己肯定感」について。
どちらも自分という唯一無二の存在を生きるために大切な要素であるが、その関係は「車の両輪」というよりも、「根っこと花」の関係のようである。
すなわち、「自己価値」のベースになるのが「自己肯定感」である。
すべては、自分を愛することから始まる。
1.成功体験と自己価値
「自己価値」とは、自分に何らかの価値があることを認めること。自己評価。
「自己肯定感」とは、どんな自分でも受け容れ、許し、愛すること。自己愛。
それらは似ているようで、異なる。
それぞれが磨かれるタイミングを考えると、よくわかる。
「自己価値」とは、自分に価値があると自分が認めること。
それが磨かれるのは、成功体験に依るところが大きい。
- ピアノのコンクールで、いままで練習した成果を発揮して金賞を受賞することができた。
- 受験勉強を頑張って、第一志望の学校に受かることができた。
- 担当していた客先から、見事に大口の仕事を受注することができた。
…などなど、こうした成功体験は、著しく「自己価値」を上げる。
私は有能であり、私はデキる人であり、私は優秀である、だから価値があるんだ、と。
これと反対に、「自己肯定感」と呼ばれるものは、おもに失敗したと感じる経験をした際に磨かれる。
- 大好きだった恋人に、こっぴどく振られてしまった。
- 三年間頑張ってサッカー部の練習に励んだのに、結局公式戦に一度も出場できなかった。
- 発注をミスって、返品不可の商品の在庫が山のように積まれてしまった。
…どうも例が妙にリアリティがある話のような気がするが、気のせいなのだろう。
それはさておき、こうした失敗体験、痛い体験といったものは、「自己肯定感」をゴシゴシと磨いてくれる研磨剤のようなものだ。
どんなに失敗して、どんなにひどく傷ついて、どんなにダメだろうが、そんな自分を愛することを学ばざるをえないからだ。
2.何かができるわけではなく
子どもと接していると、それがよく分かる。
子どもの「自己肯定感」を育てるのは、決して彼らが何かできたり、成し遂げたり、成功したときではない。
その逆で、子どもが失敗したり、できなかったり、ダメなことをしたときに、親がどういう対応をするかで育つ。
テーブルの上のミルクを派手にこぼしてしまったり、
周りの子に比べて、走るのが遅かったり、
ブロックがうまく積めなくて癇癪を起こしたり…
そんな子どもに対して、
どんなあなたでも、愛してるよ。
生まれてきてくれて、ありがとう。
と無条件の愛を伝えることが、子どもの「自己肯定感」を育む。
子どもにとっては、親=世界なので、親からの受容とはすなわち世界からの肯定であり、親からの拒絶は世界からの拒絶であるから。
もちろん、日々子どもと接していると、時にそれが難しいことは多々ある。
子どもが見せてくれる、その「ダメなところ」「腹立たしいところ」「心配になるところ」は、親が自分自身の中で受け入れていない闇の部分だからだ。
それでも、ベースとして持っている愛は、必ず伝わるのだろう。
「どんな私でも愛されている、大丈夫」
その安心感は、すなわち「自己肯定感」となり、それを土台にして自分の足で大地を踏みしめて歩いていく。
3.成功なのか?、それとも失敗なのか?
さて、その上で「自己価値」の話に戻ると、それを育むのは成功体験だと先ほど書いた。
では、その経験が「成功なのか、失敗なのか」を決めるのは、何なのだろうか。
冒頭に書いた通り、それは「自己肯定感」なのだと思う。
自分を深く愛し、自分を受け入れ、許すことができたとするなら、そんな自分に起こることもまた、愛せるようになるのではないだろうか。
- パートナーにこっぴどく振られたのは、自分がこれまで与えてきた愛の深さに気づくことができるタイミングなのかもしれない。
- 練習しても試合に出れなかった悔しさや悲しさを知ることは、ほんとうに意味での強さにつながるのかもしれない。
- とんでもない在庫を売りさばくために、いろんな方法に挑戦できるチャンスなのかもしれない。
目の前で起こっていることは全てニュートラルであり、それに意味づけをするのは、自分でしかない。
成功も、失敗も同じ事象の違う呼び名に過ぎない。
「自己肯定感」が高いと、ほんの些細なことで自分を褒め、ねぎらい、そして愛することができる。
時間通りに会社に身体を運んで、私ってえらいな、
今日もベッドで目を覚ますことができて、気持ちよかったな。
こんな綺麗な空が見られて、幸せだな。
周りに気を遣って、僕はやさしいな。
ほんの小さなことが、成功体験になり、「自己価値」を上げていく。
それは、金利における複利計算のように、雪だるま式に、どんどんと大きくなる。
けれど、複利で大切なのは、言うまでもなく元本(=つまりはベースとなる「自己肯定感」)の大きさだ。
「自己価値」は「自己肯定感」をベースにしている。
結局のところ、どこまでいっても自分が自分自身を受け入れること、許すこと、愛すること、それに尽きる。
どんな自分も、愛することから始めようか。