大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

「自己価値」とは、ただ気づくもの。

kappou-oosaki.hatenablog.jp

昨日に続いて、「自己価値」について。

「何かができる」から自分には「価値がある」という観念を手放せたとき、世界はやさしくなる。

「自己価値」とは、認めるものでも、増やすものでも、高めるものでもなく。

ただ、気付くだけのもの。

私たちが何かに対して「価値がある」というとき、具体的に何に価値を見いだしているのだろう。

あのアーティストのライブは価値があった

この型式のBMWはすごく価値がある

あの名店は遠いけれど食べに行くだけの価値がある

このピカソの絵には1億円の価値がある

あのサービスはこれからの社会においてすごく価値がある

…などなど、人によって「価値がある」と感じる対象は、それぞれだろう。

その共通点があるとしたら、何だろう。

交換可能な「お金」なのだろうか。

それとも、それをすることで得られる「経験」だろうか。

あるいは、それに対する世間の「評判」だろうか。

いやいや、何がしかの役に立つという「有用性」だろうか。

そのどれもが、正しいのだろうけれど、どれも肌感覚としてしっくりこないのは、私だけだろうか。

いったい、人が価値を感じる源泉とは、何だろうか。

産まれたばかりの赤子は、何もできないし、養育するのにお金はかかるし、まして誰かから能力を評価されているわけでもない。

だから赤子は「価値がない」のだろうか。

そんなわけはなく、赤子はそこにいるだけで周りを笑顔にする。

だから赤子には、「価値がある」。

それは一つの真実だけれども、こと「価値」という視点からすると、少しの違和感を覚える。

「周りを笑顔にする」から「価値がある」というニュアンスが含まれているようにも聞こえるからだ。

揚げ足を取るような話かもしれないが、その逆に「周りを笑顔にできない」「周りを怒らせてしまう」「周りの雰囲気を暗くしてしまう」のが私だとしたら、私には「価値がない」のだろうか。

この手の話には、何かが「できる」から、誰かの「役に立つ」から、誰かの「評価」があるから、「自己価値」を認めることができる、という根源的な観念が見え隠れする。

この「できる」「役に立つ」「他者評価」から「自己価値」を認めることほど、辛く苦しい蟻地獄もない。

それらは、自分にはコントロールできない範疇だからだ。

私が100mを9秒で走れないように、どれだけ頑張ってもできないことはあるだろうし、

役に立つかどうかなんて、私には決められないし、

まして他者評価なんてコントロールのできない最たるものだ。

原因と結果の因果律にとらわれるほど、人は不自由になる。

何かができるから、役に立つから、他者評価が高いから、「自己価値」を認めるのは簡単だ。

けれど、それは砂上の楼閣よろしく、簡単に崩れる。

私よりできる人が現れたり、役に立たないときが来たり、誰にも評価されない時期が訪れるのは、私にはコントロールできない。

けれど、私やあなたの「価値」というものは、何かができるとか、役に立つとか、他者評価があるとか、そんなチャチな物差しで測れるものなのだろうか。

決してそうではないように思う。

鍵になるのは、自分の奥底にへばりついた、消せない闇だ。

ほんとうのところ、私たちが心の深淵で求めているのは、

テストで100点を取った、

明るく元気で笑顔いっぱいの、

いつもやさしくて家族や友達に囲まれている、

そんな私の「価値」ではなくて。

何もできないクズみたいに感じる、

どこまでもネガティブで根暗でちっぽけな、

家族を見捨てて友達を裏切る薄汚れて罪深い、

そんな私の「価値」なのかもしれない。

誰しもが、他人には見せられない、自分の奥底に押し込んだ闇にこそ「価値」を見てほしがっている。

どんなクズみたいな自分でも、無限の「価値」がある。

どんなネガティブな自分も、光に包まれるだけの「価値」を持っている。

どんな罪深い私も、何度でも救われる「価値」がある。

その「価値」を信じるのは、それを否定されることよりも、よっぽど怖い。

不幸よりも、幸せを受け取ることの方が、怖いものだから。

だから、「価値を信じること」を信じられるように、祈ろう。

何度も、何度でも。

その果てのない祈りの先に。

「自己価値」とは、

増えもしなければ、減りもしない、

奪われもしなければ、盗まれもしない、

高まりもしなければ、低くもならない、

時が経とうが、風が吹こうが、何も変わらない、

多いも少ないもなく、ただ完全なもの。

認めようが、認めまいが、ただそこに在るもの。

という真実に気づく。

「自己価値」とは、ただそこに在ることに、気付くだけのもの。

それに気づいていないのは、自分自身だけ。

「自己価値」とは、ただ気づくだけのもの。

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どんなに分厚い雲の上にも、青空が広がっているように、あなたの「価値」は何があっても変わらない。

その雲でさえも、青空という音を彩るビブラートのようなゆらぎでしかない。

何があっても、青空がなくならないように、

あなたの「価値」もまた、なくならない。

ただ、それに気づくだけ。