自分がいることに価値が感じられないとき、それは結果を出したり、役に立ったりすることに「執着」してしまっています。
その「執着」がどこからきているのかを考えていくと、自分の価値を信じやすくなります。
1.それは妥協なのか、甘えなのか
先日の記事では、存在自体に価値があることは、妥協や甘えなのか?というテーマでお伝えしました。
「自分がいること自体に価値がある」と考えるのは、妥協や甘えじゃないのだろうか? - 大嵜直人のブログ
とかく私たちは、「ある」ことよりも「する」ことの方に、価値を見てしまうものです。
その人の存在よりも、実績や成果といったことに、目が向いてしまうように。
それは自分に対しての見方も同じで、何か形の見える結果が出ていないと、それは価値がないと責めてしまうことがあります。
そんなとき、「あなたは、そこにいるだけで価値がある」と言われたところで、「うーん、それもわかるんだけど、なんかそれは甘えているような気がする…」と感じてしまうかもしれません。
結論から言えば、それは妥協や甘えかもしれませんし、そうでもないかもしれません。
なんとあいまいな答えか!と思われたかもしれませんが、そうなんです笑
妥協や甘えかどうかを決めるのは、自分自身です。
そして、妥協や甘えを「いいこと」か「悪いこと」と判断しているのも、私たち自身です。
妥協や甘えだからといって、それが悪いこととは限りません。
そうしたものが必要になる場面は、生きていくなかでは出てくるものです。
大切なのは、妥協や甘えをした自分を、自分自身が責めているかどうか、という点です。
そのために必要なのが、自分自身の価値を認めることであり、自分を愛することであり、自分を受け入れることだったりします。
結局それは、「ある」ことに価値を見ることです、というのが先日の記事のテーマでした。
2.「執着」から考える、自分の価値
こうした「ある」ことに価値を見ることができないとき、どんな心理がはたらいているのでしょうか。
「自己肯定感の低さ」とか、「自己受容が足りない」とかは、すぐに思いつくところかと思います。
当然ながら、それらも大きな要因ではありますが、今日は少し違った視点で、「執着」をテーマにしてみたいと思います。
「執着」というと、「忘れられないあの人」というイメージがありますが、それと「ある」ことに価値を見いだせないことと、何の関係があるのだろう?と思われたかもしれません。
もちろん、それも「執着」の一部ですが、心の世界でいう「執着」は、人に限った話ではありません。
過去や方法といった、人以外のものにも、私たちは「執着」してしまうものです。
よかった思い出や過去の成功体験に執着する場合もあれば、その反対の場合もあるのでしょう。
そうした「執着」の特徴は、「選択肢が無い状態」であることが挙げられます。
「この人しかいない」は、ドラマの演出としてロマンチックではありますが、ずっとその状態でいることは、時に苦しくもなります。
パートナーシップにせよ、仕事にせよ、趣味やライフワークにせよ、「自分が選んでいる」という意識がなければ、続けることが難しくなります。
さて、もしも、そこに自分がいること自体に価値が感じられないのだとしたら。
それは、自分自身の価値は、結果を出すことや、誰かの役に立つことでしか証明することができない、と考えているのかもしれません。
要は、「目に見える結果を出すこと」や「誰かの役に立つこと」に、「執着」している状態といえます。
そうした観念を、ぎゅーっと握りしめていると見ることができるわけです。
3.「執着」の原因を、愛の視点から見る
この話の流れでいくと、「じゃあ、執着を手放しましょう」となるのですが、手放しの記事はいままでたくさん書いてきたので、そちらに譲りたいと思います笑
その代わりに、今日はその「執着」の原因を、愛の視点から見る、という点をお伝えしたいと思います。
先ほど申しあげたように、結果を出すことや、誰かの役に立つことに「執着」しているとしたら、それはなぜだろうか?という視点です。
その観念がつくられるのには、何らかの原因があったのではないでしょうか。
おそらく、二つの方向性があります。
一つは、そうした結果を出したり役に立つことで、自分の大切な人を笑顔にできた経験。
もう一つは、その逆です。結果を出せなかったり、役に立てなかったことで、大切な人を悲しませてしまったという経験。
一見、真逆のように見えますが、そのそのいずれにおいても、「役に立たないといけない」「結果を出さないといけない」という観念につながります。
どのような経験が、その原因になっているのかは、カウンセリングで詳しくお話を伺っていくことが多いものです。
ただ先ほど、成功体験にも、失敗した経験にも、「執着」することがあると書きましたが、それと同じです。
だって、あのときあんなに、喜んでくれたから。
だって、あのときあんなに、悲しませてしまったから。
そうした経験が、私たちの観念を強固なものにしていき、「執着」を強めることになります。
ここで私がお伝えしたいのは、「だから執着するのはダメなんだ」とか、「その観念を外しましょう!」ということではありません。
だって、「執着」するその裏側には、成功体験にせよ、失敗した経験にせよ、あなたの大切な人への愛が詰まっているいるからです。
それをないがしろにすることは、できないわけです。
大事なのは、「それほどに(執着するほどに)、愛したかった、大切だった人がいた」ということです。
自分がずっと持っていた、その愛に気付くこと。
その愛に、つながる、ということ。
それができれば、「執着」は問題ではなくなります。
「執着しなくなる」ことが解決なのではありません。
たとえ執着したところで、「だって、それが私なんだもん」と笑えることが、真の解決に近いのではないのかな、と思うわけです。
それって、要は「自分が選んでいる」ことを、肯定的に受け入れているから、できるわけです。
その状態に近づけたならば、あなたは自分がそこにいることの価値を、きっと十分に受けとっていることと思います。
自分の愛とつながること。
それは、自分がいることの価値を受け入れるのに、とても大切なことなのでしょう。
今日は、「執着」から考える自分の価値、というテーマでお伝えしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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