人のつながりが、好きだ。
ストレングスファインダーの資質第1位が「運命思考」なのだから、これはどうしようもなく私の気質なのだろう。
その気質は、飲食店の選び方でも出る。
こと自分でお店を選ぶと、顔見知りのお店を選んでしまうのだ。
新規開拓をするよりも、縁のあったお店にリピーターとなって時を重ねていくことが好きなようだ。
新しい出会いで得られるものもあれば、時間をかけるほどに熟成し旨味が増すものもあるのだろう。
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ということで、東新宿の倉乃介さんを再訪した。
■感想戦を黙らせる味 ~東京・「東新宿 炭火割烹 倉乃介 発酵と熟成の幸」 訪問記
■日本に生まれた幸せを噛み締める味 ~東京・「東新宿 炭火割烹 倉乃介 発酵と熟成の幸」訪問記
以前のエントリーにも書いたが、その味と大将の人柄に惹かれて、折に触れて訪問させて頂いている。
お刺身三種盛り。熟成された刺身は、官能的に美味しい。
倉乃介さんのお刺身は、熟成されて旨味が凝縮されていて美味しい。
「とれたて新鮮」なお刺身にはない、深い旨味と滋味、そして官能的な食感。
ボジョレーのように新鮮さを楽しむために、早く飲んだ方がいいお酒もあれば、渋くて飲めなかったのに、時を重ねると重厚なフルボディに熟成するお酒もある。
されど、大将がタクトを振るった時間という芸術の織りなす味には、いつも感動する。
焼き野菜三種盛り。枝豆、舞茸、茄子。滲み出る秋の滋味、そして塩が美味しくて。
こと人間関係でも同じかもしれない。
「嫌な人とは付き合わない」というのも、人生の一つの真実かもしれないが、
時間を重ねてこそ、醸し出すことのできる深い味わいがあるというのも、人生の一つの真実なのだろう。
それが、「熟成」と呼ばれる時間の芸術なのだろう。
これほど厚く切られたホヤは、初めてだった。母性溢れる、海そのものの味。
「発酵」も然り。
ある特定の微生物の力を借りることで、時間を芸術に変える。
味噌、お酢、醤油、納豆、ヨーグルト、鰹節、そして醸造酒…さまざまな食品が、発酵を通じて元の食品は大きくかたちを変えていく。
それはまるで奇跡のようだ。
「発酵」は、一歩間違えば「腐敗」になる。
そうならないように温度、湿度などの外部環境を整え、あとは乳酸菌や酢酸菌などの微生物の力に委ねる。
そう、やることをやったら、あとは目に見えないものたちの大きな力に委ねるのだ。
ソースだけでお酒が飲めそうな、カニクリームコロッケ。
環境を整える。
発酵食品においては、湿度や温度といったものであり、
人間関係でいえば、己の内面のクリアリング、癒しなのだろう。
何もしないでいい、というわけではない。
それらの環境を整えた上で、あとは時間をかけることを、怖れないことだ。
とうもろこしの天ぷら。ほろほろとあまく、せつない。夏が終わる。
熟成されるほどに、旨味は増す。
「かんたん」、「お手軽」、「誰にでも」は、いつの時代にも人の心を捉えて離さないセールスワードではあるが、一見そう見えることの逆側に真実はある。
望む状態への変化のためには、時間をかけることを、怖れないこと。
それは、「かんたん」なことを、「お手軽」に思えることを、「誰にでも」できることに、時間をかけることを怖れない、ということだ。
「難しい」ことを、「大変な」ことを、「誰にもできない」ようなことを、ただ一回だけすることが、変化をもたらすのではない。
美味しい発酵食品をつくるのは、日々のたゆまぬ環境の管理であり、
人間関係の大きな恩恵をもたらすのは、日々の己の内面との地道な対話である。
どちらも、誰にもできないことではない。
けれど、確実に時間はかかることでもある。
鮎の土鍋炊き込みご飯。骨まで香る鮎も、もう終わりだそう。
すぐには、熟成も発酵もしないかもしれない。
されど時間をかけることが、変化への唯一の道なのだ。
時間をかけることを、怖れない。
倉乃介さんの「発酵と熟成の幸」は、いつも人生の真実を教えてくれる。
行燈の光が、名残惜しく。
倉乃介さんを初めて訪れてから、1年と少しになるだろうか。
何度来ても、新しい感動がある。
新しいお店の開拓もいいが、やはり同じお店と時を重ねる楽しみは、何ものにも代えがたい。
倉乃介さんが近くにある東京都民に嫉妬しながら、再訪を固く誓って帰路につくことにした。
大将、ごちそうさまでした。
美味しかったです。