霜月はじめの、息子と娘との休日。
いつもは何をしようか、どこに行こうか、検討することから始まるのだが、その日は違った。
前日に息子がアフタースクールの友達と遊ぶ約束をしてきた、と言うのだ。
「2じにまちあわせをして、こうえんにいくんだよ」
ん?おとうは?
「いらない。ついてこなくていい」
え?え?ほんとに?
聞けば、娘も一緒に3人で、子どもたちだけで遊ぶと言う。
初めてのことだ。
いつかはそうなると分かってはいたが、それが今日となると、心の準備ができていないのは、何でも同じらしい。
いや、まだ早くないか?大丈夫か?
あの公園までの道は、交通量が多くないか?
知らない人に、ついて行ったりしないか?
遊具で怪我したりしたら、どうする?
何かあった時の連絡手段は?
ネガティブな心配が、頭を埋め尽くす。
けれど、自分のときは何歳から一人で遊びに出掛けていたのだろうか?
同じくらいの歳の頃だったような気もする。
いつまでも心配して、籠の中に入れておくわけにはいかない。
必要なのは、心配よりも、信頼だ。
…分かってはいても、総論賛成・各論反対よろしく、「いや、でも、それとこれとは…」と葛藤する。
「5じにかえってくるから」
ソワソワする私をよそに、肝の据わった息子。
いつまでも子どもを子ども扱いして、成長を阻んでしまうのは、親なのかもしれない。
=
やっぱり行きだけはついてきて、と言うので、待ち合わせの場所までついて行き、帰宅時間を念押しして別れた。
そこから私は、何も手につかず、心ここにあらずの3時間を過ごすことになる。
様子を見に行こうかな、いやでも、もしその間に何かの拍子に帰ってきたら、入れ違いになってしまうよな…
などなど、悶々としながら過ごす羽目になった。
心配よりも信頼、されど、なかなか難しい。
果たして5時過ぎに息子と娘は何事もなく帰ってきて、ケロリとした顔をしている。
このソワソワと心配からの、安堵感といったら…
なかなか味わうことのできない3時間だった。
親が考えているよりも、驚くほど子供の成長は早い。
それなのに、もう要らないものを後生大事に抱きしめて、葛藤してしまうのが、親という生き物なのかもしれない。
それは、もう仕方のないものだと思う。
心配よりも信頼。
できればいいけど、無理だもんなぁ…
=
さて、目に映るものは、すべて自らの内面を余すことなく投影したものだとしたら。
驚くほど変わっているのは、誰なんだろう。
そんなことを考える。
ちなみに、息子が友達と待ち合わせをした場所は、ちょうど1年前に私が断酒という史上最大の手放しを決意した小橋だった。
あれから1年、またいろんなものを手放していきなさい、と小さな先生は言っているのだろうか。
なんだか世の中、よくできている。
後日、公園で娘に「アンパンマン描いて!」と言われて描いた図。
どこか卑猥な笑みを浮かべる輩になってしまったのは、なぜだろう。