物語を書かせて頂く中で、一つ分かったことがあった。
ブログのような一回完結のものを書くのと違って、小説のような長い物語を「書き切る」力が要る、ということだ。
そして、それは筋力という肉体的なものと連動しているのかもしれない。
まったく根拠も何も、ないのだが。
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毎日同じ話と向き合っていると、だいたい気分が倦んでくる。
これがいい!これを書きたい!というモチベーションが持続するのは、数日のことで。
途中まで書いてみて、具体化したものと、当初何となく想像していたものとのギャップに苛まれ、放り投げたくなる。
「お前に才能なんてないよ」
「やめとけよ。やるだけ時間の無駄だぞ」
「こんな陳腐なものを世に晒すつもりか?」
エゴか恐れか悪魔かのささやきが、頭でエコーしだす。
スマホがいじってほしそうにしている。
パソコンの白い画面は、悲しそうな顔でこちらを見ている。
机から離れたくなる。
いよいよ私の心は、ここにあらずで、キーボードを叩く音が止まる。
書くことのしんどさと、書けない罪悪感とがないまぜになり、鬱々としてくる。
前門の虎、後門の狼。
書くことも、書かないことも、嫌すぎて耐えられない。
なぜこんなことしているのか、分からなくなる。
下手だという恥をしのんで、世に出し続けることが、上手へのただ一つの道。
されど、出すべきものがつくれないなら、それ以前の問題だと、自責の念に駆られる。
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水分が足りなければ、喉が渇くように。
必要なものは、必要なときに身体が分かっているようで。
そうしたときには、身体を動かしたくなる。
ほんの三十分でも近所を走ってくると、鬱々とした頭の霧が晴れることが多い。
そして、ランニングもいいのだが、不思議なことに近所のスポーツジムで筋トレもまた心地がいい。
非力な私は、もともと筋力というものにコンプレックスがあった。
だからかもしれないが、筋トレというのがどうも苦手で、昔から続けることができなかった。
それがここのところ、ジムに行くと必ず顔を合わせる、超絶胸板の厚いマッチョなおじさんと挨拶をしたりして、筋トレをしている。
そして、それはエゴか怖れか悪魔のささやきに負けて、机から逃げ出そうとする私を支えてくれる。
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書き切る力とは、筋力のことなのかもしれない。
最後に寄る辺となるのは、そこに「在る」自分の肉体なのだと思う。
そこに「在る」肉体は、どこにもいかない。
その確かさが、混乱して逃げだしそうな私に、落ち着きを与えてくれる。
そう考えると、書くことというのは、意外と肉体労働なのかもしれない。
ランニングコースの、近所の神社。
朝の神社の清々しさは、どこか違う街のようで。