記憶というものは、感情と密接に結びついていることが多い。
そして感情というものは、何がしかの食べもの、音楽、風景、街…そういったものと結びついている。
ふとした瞬間に、忘れていたような記憶がよみがえることがある。
それは、忘れていたのだろうか。
どこかに仕舞っていた古びた宝箱が、何かを鍵にして開くように。
歳を重ねるということは、そうしたアルバムのような感情を、重ねていくことなのかもしれない。
笑っている顔や怒っている顔、そして悲しそうにしている顔。
セピア色になってしまえば、どれも切なく、また愛おしい。
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久しぶりに外で食べるお好み焼きは、どこか懐かしい感じがした。
厨房で焼いて出てくる形式のそれは、失敗しない安心感の分、何もない鉄板を前にする時間が長くなる。
外でお好み焼きを始めて食べたのは、いつだっただろう。
中学生くらいの頃だったか。
ネットもまだなかった時代、地方の田舎の中学生の遊びといえば、限られてくる。
外食というのは、その中の数少ない娯楽の一つだった。
少し遠くの、それでも自転車で行ける距離にあった、おばちゃんが一人でやっているお好み焼き屋。
同級生の友人たちだけで食べたお好み焼きは、家で食べるそれとはまったく違った気がした。
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大人たちがしている「飲み会」とやらが、羨ましくて。
大人になりきれない私たちは、そのお好み焼き屋での会合を「飲み会」と称して、密やかな悪事のように心をときめかせていた。
話を聞きつけた、普段はあまり話さないクラスメイトも集まって、結構な大人数が集まったような気がする。
あのおばちゃんのお店は、自分たちで焼くスタイルのお店だった。
いまとなっては、どうでもいいような話に騒ぎ、上手く焼けるかどうかに一喜一憂した。
コーラとジンジャエールの泡を、ビールに見立てて乾杯した。
偶然にも私たちの他に客はおらず、気兼ねなく騒いでいたように覚えている。
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誰かに、好かれたくて。
カッコをつけたくて。
何かに、なりたくて。
特別な何かを持つ、誰かになりたくて。
どこか必死で、それでも、どこか斜に構えて。
どうにもならぬ、鬱屈とした想いを抱えて。
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やがて、それぞれがそれぞれの世界を持ち始め。
そんな「飲み会」も回を重ねることもなく、泡のように消えて行ってしまった。
あのおばちゃんのお好み焼き屋にも、わざわざ足を運ぶこともなくなっていった。
歳を重ねるごとに、電車に乗れるようになり、行動範囲は広がり、いろんな遊びを覚えていったけれど。
あのお好み焼き屋の、秘密基地のようなワクワク感は、セピア色の戻らぬ思い出として、あの頃の瑞々しさと、成長痛のような痛みとともに、どこかへ仕舞ってしまったようだ。
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ようやく、オーダーしたお好み焼きがきた。
美しいフォルムのそれは、自分で焼いたあのお好み焼きとは似つかないけれど。
それでも、多めに入った葱が、そのセピア色を思い出させるようだった。
ヘラを握り、ラフに切り分けながら、私はその嗅いだ。
その甘いソースと青海苔の香りは、どこかセピア色のような気がした。