結局、人はいま現在にしか生きられないように思う。
過ぎ去りし時間を悔やみ、未だ来ぬ時間を思い煩うのは人の常。
されど、双方に引き裂かれそうになる意識を、いまに留まらせてくれるのが、細部を見つめる、ということなのだろう。
癒しは、細部に宿る。
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多くの形而上的な概念と同様に、「時間」というものも、実は人間が生みだしたフィクションではないかと思うことがある。
過去から未来へと引かれた直線の上を、等速運動をしながら滑っていく機械仕掛けの人形。
私たちを縛る「時間」という観念は、そんな形に近いのかもしれない。
今日の前は昨日であり、今日が24時間を刻むと明日になる。
かたかたと無機質な音を立てながら、「時間」は進んでいく、というように。
果たしてそれは、ほんとうだろうか。
瑞々しく感じられる何年も前の日があったり、何をしていたか思い出せない昨日があったり。
人の生は、そんな等速運動では動かない。
3年前も一昨日も、言ってみればただの記号に過ぎぬ。
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結局のところ、人が思い煩うのは、過去と未来のことが大半だ。
いま、この瞬間は、何も起きていないのだから。
ただ、わたしは息を吸い、吐いている。
もしそうでなければ、思い煩うことすら難しいだろう。
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今日、何十年ぶりかに自転車で派手に転倒した。
久しぶりに味わう、あの景色がスローモーションになる瞬間。
あの瞬間に、何かを思い煩うことなど、できはしないではないか。
そして遅れてやってくる、身体の各箇所の、痛み。
痛みは、強烈にわたしの意識を、いまこの瞬間に引き戻してくれる。
そして、何度でも気づくのだ。
痛い。
けれど、痛いからこそ、大丈夫だ。
わたしは、生きている、と。
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不意の事故や、怪我をすることが、いいことと言っているわけでもない。
ほんの小さなことで十分なのだ。
空を見上げる。
よく噛んで食べる。
花の形をじっくりと眺める。
ゆっくりと息を吸い、吐いてみる。
目に映るものの名前を呼ぶ。
誰にでもできる、ほんの些細な、簡単なこと。
細部を見つめる、ということ。
それは、過去と未来という偽りの時間に引き裂かれそうになる私の意識を、いまこの瞬間に留め置いてくれる。
その瞬間は、うたかたのように、浮かんでは消えていく。
生とは、その瞬間の繰り返しでしかない。
それは繰り返しであり、決して積み重ねではない。
ただ、いまこの瞬間が、あるだけ。
その繰り返し、繰り返し。
葉の裏に、小さな癒し。