大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

疾風のように。

短距離走よりも長距離を走る方が、昔から好きだった。

徒競走でもマラソンでも、スポットライトを浴びる側ではなかったけれど、長距離はどこか走っていて楽しかった。

高校の時分、学校の裏山の「一万歩コース」をよく飽きもせず走っていた。

瞬きすら許さぬ電撃の6ハロンよりも、淀の2マイルが好きなのは、そのせいもあるのだろうか。

おかげで、身体を動かそうと思うとランニングになる。

筋トレの絶大な効用を至るところで聞くのだが、いかんせん続いたためしがない。

優しい微笑みの目尻のような、三日月が出ている夜だった。

暖冬とはいえ、さすがに大寒の時候、風は身を切るように冷たい。

いつもの神社までの3,4キロのコースの途中で、久しぶりにあのコースを走ってみようと思った。

大回りで坂道を登って降る、8キロほどのコース。

どうしようもなく心が揺れて、辛く、悲しく、自分ではどうしようもできないことに執着して、しんどかった時期に、よく走っていたコース。

くるぶしを疲労骨折しても、来る日も来る日も走っていたが、走り始めてから1年ほどすると、ぱったりと走れなくなった。

最近また走ることを再開してから、近所の神社までの少し短めのコースをゆったりと走っていた。

この夜もそのコースのつもりで走り出したが、ふと、その坂道を登って降る、長い距離のコースを走ってみたくなった。

久しぶりに登る坂道は、思ったよりも平気だった。

あの頃の方が、体重も落ちていたし、月の走破距離も圧倒的に長かったはずなのだが。

不思議と、走っていて辛くもしんどくもなかった。

坂道ではあるので、息は上がるし、ふくらはぎは張ってくるのだが、それがここちよかった。

なぜだろうと、走りながら思う。

あの頃は、辛くしんどく走りたかった。

ただ、それだけなのだろう。

息を切らしながら、私はそう思った。

坂の頂点を越えて、下りに差し掛かったところで。

思い切り、走ってみた。

坂道は、登りよりも下りの方が怪我をしやすい。

自分で思っている以上に、慎重に。ゆっくりと走らないといけない。

心肺機能に比べて、筋肉は負荷に慣れるのが遅い。

ゆっくり長く走った方が、身体にいい。

転倒したりして怪我をしたら、元も子もない。

瞬間的に浮かんだ、それらの思考を、私は振り払う。

うるさい。小賢しいよ。

身体の衝動に身を任せる。

風を、切る
もっと、速くだ

途端に息が上がる
かすれた息遣いになる

もっと、速く

足首は悲鳴を上げ始める
腕を、思い切り振った

もっと、もっと

疾風のように
雷のように

ただ、その心の趣くままに

息が苦しくて、えづいた

まだ、走れる
もっと、走れる

まだ、まだいけるはずだ

どれくらい走っただろうか。

自宅の近くの交差点で止まったとき、私は短距離の全力疾走を終えたあとのように、両膝に手をついた。

なかなか、息は入らなかった。

思い切り走るというのは、どれくらいぶりなのだろう。

出し切った後の、何と心地よいことか。

されど、その反動で喉はおかしく、手は震え、また下半身の節々が痛みと熱を帯びていた。

自宅までの残りの道をクールダウンのために歩きながら、この熱は明日も残っているのだろうかと私は思った。

夜も更けたが、まだあの三日月は地平線の近くにいた。

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