学生時代の音楽仲間から、結婚したとの便りが届いた。
仮に、彼女をトモコと呼ぶことにする。
ウエディングケーキを新郎から食べさせもらっているトモコは、この上なく幸せそうな笑顔をしていた。
トモコは、当時ヴァイオリンを弾いていた。
とんでもなく、上手かった。
楽器を弾き始めたのが大学からと遅かった私の見る目を差し引いても、トモコのヴァイオリンは上手かった。
天真爛漫、自由奔放、天衣無縫、千両役者。
その音色は、聴く人の心を揺さぶる音をしていた。
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ある日、仲間内でカラオケに行くことになった。
トモコもその中のメンバーにいた。
気怠そうにしていたトモコは、順番が来るとおもむろに立った。
流れてきたのは、石川さゆりさんの「天城越え」のイントロだった。
その歌声に、驚いた。
上手いからではない。
いや、もちろん上手かったのだが、それ以上に「天城越え」は「石川さゆりさんの名曲」ではなく、「トモコの歌」になっていたからだ。
そして、その歌は、彼女がヴァイオリンで奏でる音色と、あまりにもそっくりだった。
ヴァイオリンの奏でるクラシックと、演歌の歌声。
縁のなさそうに見えるその二つが、私にはどうにも同じ音色にしか思えなかった。
それは、トモコの歌声だった。
いや、トモコそのものだったと言っていいのかもしれない。
彼女の持つ透明感のある情熱、どこまでも素直な感情の発露、そして恋なのか未来なのか分からないが、思い通りにいかないやるせなさ、粘り気のある生々しさ、天才ゆえの諦念…そんなトモコのすべてが、その歌に、ヴァイオリンに、現れていた。
そのすべてが、トモコという生命そのものが放つ輝きのようだった。
それは、美しかった。
そんなトモコも、結婚か。
トモコ、おめでとう。
私はそんな言葉とともに、古き良き思い出に浸りつつ、トモコの写真をぼんやりと眺めていた。
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書くことは、好きですか。
写真を眺めながら、この前いただいたそんな質問が、ふと頭をよぎる。
私にとって、答えに窮する質問だ。
書くこと、とは何だろう。
論文やレポート、エッセイ、ルポ、小説、詩歌…いろんな「書くこと」がある。
結局のところ、何を、書きたいか、だ。
「書くこと」とは、ツールに過ぎないのかもしれない。
それは、トモコにとっての「歌」や「ヴァイオリン」と同じで。
何を、表現したいのか。
それは、とりもなおさず、どう生きたいのか、に尽きる。
そして、それは私という人間を、どう世界に与えるか、という問いと同義だ。
もう少し言い換えると、
世界に、何を与えるか
という問いかけなのかもしれない。
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心理学においては、「才能」を「ギフト(gift)」と表現することがある。
それは、「生まれつき天から与えられたもの」というニュアンスがある。
もちろん、英語でいうところの"ability"のように、後天的に練習して、身につけた「才能」もある。
けれど、唯一無二の才能とは、自分が自分であることなのだろう。
それは何かを足すものでもなく、ただ自分であること。
「私が私であること」こそが、最も尊い才能であり、天からの贈り物なのだろう。
そして、"gift"と同じ語源の似た単語がある。
それは、"give"という単語だ。
意味はもちろん、「与えること」。
才能とは、
あなたが天から与えられた贈り物であり、
そしてあなたが世界に与えるもの。
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ということは。
世界に何を与えるか
という問いは、
私が何を与えられてきたか
という問いかけと同義なのかもしれない。
その問いかけは、自分が世界から、あるいは天から愛されてきた証や事実を探す旅のようだ。
世界に何を与えるか、を考えることを、ライフワークと呼ぶ。
自己表現も、芸術も、才能も、ライフワークも、結局のところ同じものの違った見方に過ぎないのかもしれない。
うみのおくりもの。