「新しい音楽を聴かなくなったら、老化が始まっている」
という話を聞いてぎくりとしたのは、20代の頃だっただろうか。
感情もなくハードワークを重ねていた当時の私にとって、新しい音楽どころか、音楽自体を聴く時間も少なかったように思う。
その話を聞いて、もう何年も新しいCDを買っていなかったことに気づいたことを覚えている。
確かに「新しい音楽」というのは、心のみずみずしさを保つ一つの手段であるとは思う。
当時から考えると、好きな音楽を探す、聴くことは、とても簡単なことになった。
ネット上の検索も、ネットショップも、Youtubeもなかった当時、ふと耳にして気に入った音楽を「聴く」までに至るのに、膨大な労力を要した。
それからすると、いまはネット上にあふれる「新しい音楽」を探すのに、労力もないのに、
けれど、自分が愛した音楽と時を重ねていくのも、また音楽の一つの愉悦のように感じる。
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折に触れて、ブラームスのヴァイオリン・ソナタ第3番を聴く。
私が初めて聴いたのは、二十歳過ぎだったか。
マキシム・ヴェンゲーロフの演奏を、生で聴く僥倖に恵まれた。
第2楽章、ニ長調、Adagio。
のびやかに歌うその音色に、背筋が震え、涙が流れた。
それ以来、ブラームス、ヴェンゲーロフ、そしてヴァイオリン・ソナタ3番は私の愛する音楽である。
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ハードワークで抑えきれないほどに心が痛んだとき、部屋の灯りを消して、この曲のCDを聴いたことを思い出す。
ただ寝るためだけに帰る部屋は、誰もおらずどこか生活感がなかった。
肉親を失った寂しさと悲しさを押し殺すために、心を凍らせていたのだろうか。
外の灯りがうっすらと部屋を照らす中、フローリングの床に横になっていた。
その薄明かりも億劫で、右腕で両目を覆った。
第2楽章、ニ長調、Adagio。
絹のような、それでいてどこか野太いD線の音色の歌い出し。
夜更けの小径、その音色はどこかに導くように。
相変わらず心は凍ったままだったが、あのコンサートホールで聴いた音色を思い出していた。
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時を重ね、またこのブラームスのヴァイオリン・ソナタを聴く。
今度は、やさしい陽の光の下で。
第2楽章、ニ長調、Adagio。
何度、この伸びやかな歌い出しを聴いただろう。
聴くたびに、その音色に深みが増していくようにも感じる。
時を重ねるごとに、この曲との関係もまた深まっていく。
音楽の味わいは、時間とともに。
それはまた、生きることの喜びと同義でもあるのだろう。