月が変わり、年度が変わった。
卯月である。
週末からぐずついた空模様は、昼過ぎからまた降り出した。
雷乃発声、かみなりすなわちこえをはっす。
季節の変わり目は、大気が不安定で雷が鳴ったり、あるいは雪や雹が降ったりもする。
卯月、雨、雷。
「花散らしの雨」の言葉の通り、咲き始めた桜の花も、少し散ってしまうのだろうか。
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春の訪れの雨は、大地を潤し、植物を育てる恵みの雨でもある。
それなのに、どこか悲しげだ。
悲しいという感情は、私にとって何かが失われることと結びついている。
もう見ることのできない故郷の街の景観、
過ぎ去っていった夏の暑さ、
今生では会うことのできない人たち、
あるいは、もう二度と訪れない、この瞬間。
そうしたものは、悲しみと結びつきやすい。
そして、悲しみの奥には、その失われたものたちとのつながり、そして、それらへの愛が眠っている。
古来において、「愛しさ」とは「かなしさ」と読まれていたように。
悲しみと愛は、相似形をしている。
けれど、
今日のこの春の雨に感じる悲しさは、またそれとも違うような気もした。
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よく晴れた空は、視線を上に向けて、大きく息を吸いたくなる。
上を向くと、口角が下がり、自然を笑顔になる。
雨が降ると、視線を地に向けて、雨音に耳を澄ませたくなる。
下を向くと、目を閉じて、手を合わせたくなる。
祈るとき、人は目に見えないもの、大いなるもの、自らの力の及ばないものに、手を合わせる。
「愛しさ」が「かなしさ」であるのならば。
そうした祈りの対象への「愛しさ」は、「かなしさ」と読めるのかもしれない。
卯月の雨は、悲しく。
卯月の雨は、どこか祈りを誘っているように思えた。