大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー見習い。

かなしさについて。

悲しさについて、ここのところ考えている。

 

ひとつ思うのは、何かが悲しいというときは、必ずその対象があるようだ。

 

恋人と別れてしまい、悲しい。

ドラゴンズが完封負けして、悲しい。

悩みが友だちに理解してもらえなくて、悲しい。

コンサートのチケットの抽選に落ちて、悲しい。

親しい人が亡くなって、悲しい。

 

恋人、ドラゴンズ、友だち、最高に自分、親しい人。

何がしかの対象が、悲しさの先にはある。

 

こうして考えてみると、純粋に自らの内から湧き上がる悲しみ、というのは、どうも想像しづらい。

 

それは、悲しさに限ったことだろうか。

ふつふつと湧き上がるよろこび、というようなものは、何となくあるような気がする。

 

しかし、悲しみというのは、それとまた違うようにも感じる。

 

対象がある、ということは、意識がそこに向いている、ということだ。

 

 

人は、自ら選んでその対象に意識を向けている。

 

同じ車に乗っていた二人が、同じ場所を通り過ぎても、まったく違う看板や風景を見ていたことなど、日常茶飯事だ。

 

「美味しそうなラーメン屋があったね」

「え?ほんと?沈んでいく夕陽がとってもキレイだったよ」

 

あるいは、同じクライアントに会ったのに、

 

「すっごく気難しそうなクライアントだったね」

「え?ほんと?すごくソフトで物腰のやわらかい方だと思ったけど?」

 

と、まったく印象が違っていたことも、当たり前のようにある。

 

ラーメン屋か夕陽か、気難しさか柔らかさか。

何にフォーカスを当てるのか、何を見るのか。

 

その選択をしているのは、何だろう。

 

 

例えは古いが、アンチ巨人という人種がいる。

 

ジャイアンツが気に食わなくて、負けると喜ぶ人たちのことだ。

 

そんなアンチ巨人という人種を的確に表した言葉に、「アンチ巨人は巨人ファン」というものがある。

 

大嫌いなジャイアンツだけれど、いてもらわないと困るのだ。

 

大嫌い、大嫌い、大嫌い、

だいきらい、だいきらい、だいきらい、

だいっきらい、だいっっきらい・・・

だ、だい…すき……

 

人の意識が向く対象は決まっている。

 

さまざまな感情は芽生えれど。

結局のところ、人が意識を向けるのは、愛があるものだけだ。

 

私も含むアンチ巨人にとっては、吐き気がするような事実なのだが。

 

意識が向くということは、愛してしまっているのだ。

 

 

さて、悲しさには必ず対象がある、と冒頭に書いた。

 

そうだとするなら、悲しさを感じる対象を、愛している、ということだ。

 

悲しみを感じるほどに、その対象に意識を向けている=愛している。

 

その昔、「愛し」と書いて「かなし」と読んだ。

「悲し」も「愛し」も、おなじ「かなし」。

 

かなしさの底には、その対象への愛が、静かに横たわっているのかもしれない。

 

意識を向けること自体が、愛を向けていることなのだから。

 

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花が散って悲しいのも、その花への愛からかもしれない。