さて、断酒567日目である。
1年半前の2018年11月3日から、ずいぶんと遠いところまできたものだ。
ふと、断酒を始めたときのことを思い出す。
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「実はお酒は、1年半ほど飲んでなくて」と言うと、周りからは「すごい決断をされたんですねぇ」とか、「固い意志を持って、決められたんですね」と言われることが多い。
その度に、「いや、そうでもないです。何となく、です」というような受け答えをするのだが、それが質問された方の期待した答えではないようだ。
不思議そうに見られるか、がっかりされるかのどちらかだ。
禁煙にしても断酒にしても、「鉄のごとき固い意志」で成し遂げるもの、という観念が、誰もが持っているらしい。
そのいずれも経験している私が、経験則から語るならば、それは決して真実ではない。
もちろん、健康上やその他の理由から、「やめよう」と思って、やめる人もいる。
先ほど述べた真実ではないというのは、「そうではない人もいる」というほどの意味である。
ある日、ふと、何となく、やめようと思った。
やめてみようと思った。
そう、思ってしまった。
それに、従ってみた。
ただ、それだけが理由の場合もあるのだろう。
私の場合は、小雨降る小橋の上で、息子と亀に餌をやりながら、「ふと」そう思ってしまった。
それは、「決めた」というより、「選ばされた」という表現の方が、私にとってはしっくりくるように思う。
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いったい、人間に自由意志というのは、存在するのだろうか。
自由意志、というと、17世紀に生きたかの有名なスピノザが、それを否定したことで知られる。
人間は自由な意志で何かを選択したと考えるけれど、自分がどう決断するかは原因があり、その原因もまた同様に他の原因によって決定され…それは無限に続いていく。
すなわち、自由意志はない、と。
ある一点の物理的な状態が分かれば、すべての未来が予測できるとする「ラプラスの魔」とも通じる考えかもしれない。
デカルトの機械論的世界観とも相似しているその考えは、現代においては脳科学の分野でも見られる。
もしも思考や感情が、ある脳内の化学物質の伝達なり、電気信号の伝達なりの物理法則で説明できるのであれば、人間の自由な判断というものは原理的に存在し得ない。
外界からの刺激や、それを受ける自分の状態によって、それは支配されてしまうからだ。
もし、身体を支配する物理的なメカニズムがすべて解明されたとしたら、人間の選択とはすべて「沸騰したやかんに触れてしまったとき」のような身体反応に過ぎない、と見なされるのかもしれない。
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もしも、もしも、自由意志がない、とするなら。
なんであんなことをしてしまったのだろうと、ある過去の選択を後悔することは、意味のないことかもしれない。
大切な人を、傷つけてしまった。
愛する人を、守れなかった。
自分の本音を、押し殺してしまった。
いけないことだと、分かっていたのに。
誰しもが、そんな想いを持ってしまうことはあるだろう。
その選択をした自分を否定して、その愚かさを責めてしまうことも、あるだろう。
けれど、もしも自由意志がないとするなら。
そのときの自分は、「そうするしかなかった」のではないか。
それは自己欺瞞でも、甘えでも、正当化でもない。
確かに自分でそうしたのかもしれないが、そうせざるをえなかった、とも言える。
それが、良いも悪いもない。
ただ、もしかしたら、そこには「それをしない」という選択自体がなかったのかもしれない。
選んでいるのではなくて、選ばされている。
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もし、さまざまな選択が、自由に選んでいるように見えて、実は選ばされているのだとしたら。
その思考実験は、二つの帰結をもたらす。
そんな人生など、生きるに値しない。
もしくは、
だからこそ、生きる価値がある。
のいずれかだ。
私としては、後者を推したい。
川面に浮かんだ木の葉が、ゆらゆらと揺れながら、川の流れに身を任せるように。
その行く末に広がるのは、湖か、大海か、それとも。
揺蕩いながら、それを楽しむこともできる。
それを、サレンダーとも呼ぶのかもしれない。