大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

断酒日記【903日目】 ~理性は情念の奴隷。

さて、断酒して903日が経った。
2年半近くになると思うと、ずいぶんと遠くに来たものだ。

酒を断って2年半にもなると、もう酩酊していた感覚や記憶も、薄れてゆくようだ。
はてさて、酔うとは気持ちいいものだったような気がするが、どんな感覚だったか…2年半前の感覚を思い出すのは、難しいようだ。

そうかと思えば、世界の終わりの日がやってきたかのような、二日酔いの感覚は、割と覚えているのが不思議だ。
頭の中でとげぼうずがゴロゴロとローリングアタックをして脳みそをかき回しながら、とてつもなく胃が重く吐き気がして、この世に存在すること自体が苦痛のような、あの感覚。

人間、幸せの記憶よりも、辛い記憶の方が残りやすいのだろうか。

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それもまた興味深いのだが、この2年半続いている断酒が、強固な決断によってなされたものではないことが、最近の私の関心を引いている。

2年半前、立冬を前にした肌寒い小雨の日。
近所の川の橋の上で、「なんとなく」酒を断ってみようと思った。

息子と娘が、隣でぽいぽいと川のカメにエサをあげていた。
そんな「なんとなく」の断酒が、いまも続いている。

結局のところ、人の意志なんぞ、思っているよりも大したものではないのかもしれない。
意志は、理性と言い換えてもいい。
どこか、近代の理性・合理主義に染まった私たちは、「頭で考えて正解が出る」という幻想に、浸り過ぎているのかもしれない。

考えてみると、生きる中で重要な選択というのは、「選んでいる」というよりも「選ばされている」という印象を受ける。

AかBかの何がしかの選択肢があって、理性的・合理的にそれを選択していった結果が、いまである…というわけではないように思う。

そのとき、そうせざるを得なかった。
もともと、Bという選択しかなかった。
なんかよくわからないけど、気付いたら結果的にAを選んでいた。

振り返ってみると、人生の中で「ほんとうに」重要な選択というのは、そんなふうにされているような気がする。
それは、運命論的な考えに近いのかもしれない。

アタマで考えたことで、決められるわけではない。
ほんとうに大事な、コアになる部分ほど、「よくわらかないけど」「なんとなく」「気付いたら」という選択の仕方が多いような気がするのだ。

そう感じるのは私だけだろうか。
それとも、主体的に理性的に考えて、選び抜いてきた人たちも、いるのだろうか。

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デイヴィッド・ヒューム(1711~1776)の有名な言葉に、

理性は情念の奴隷であり、また、ただ情念の奴隷であるべきなのであり、理性が、情念に仕え従う以外の役割を要求することは、けっしてできないのである

という言葉がある。
人間は理性的で、その理性に基づいて行動するわけではなく、その行動の根底にあるのは情念であると、ヒュームは観ていた。
情念という語は、情熱、感情、感覚と言い換えられるかもしれない。

車に例えるなら、目的地とエンジンの関係になるのかもしれない。

ぱっと考えると、

目的地=理性によって導き出されるもの
エンジン(車を目的地まで運ぶもの)=情念、情熱

という感覚になるのだが、それは真逆なのかもしれない。

目的地=情念、情熱、感覚、感情が知っている
エンジン=目的地まで運んでくれるもの=理性

という図式が、ほんとうのところのように感じるのだ。

どこへ行くかは、アタマで考えても分からない。
ただ、自らの心はそれがどこなのか、知っている。

ワクワクする、とても惹かれる、心が動く、なぜだかわからないけれど行ってみたい…そうしたサインを使って、目的地を教えてくれる。
その目的地へ行くのに、どうやって行こうかのために使うのが、理性であり知性なのだ。

すなわち、理性は情念の奴隷であるべきだ、と。

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ヒュームが語った文脈から、拡大解釈が過ぎたかもしれない。
けれど、900日ほど前の断酒の決断を振り返ってみると、そんなことが思い浮かぶ。

それは、人の意志の力を軽んじているわけでは、決してない。
そうではなくて。
何というか、流れていく運命を、ただ、信じていると言い換えらえるのかもしれない。

理性は、情念の奴隷であるべき。

もっと、こころに素直に、そのこころの、趣くままに。