風を、マイクが拾っていた。
平原綾香さんによる、国家独唱。
本来ならばそこにあるはずの、興奮とざわめきの止まらないスタンドの歓声は、今年は無い。
このダービーの前の国家独唱が、たまらなく好きだ。
天皇賞にも有馬記念にもジャパンカップにもない、そのセレモニーが、ダービーが特別なものであることを再認識させてくれる。
マイクの前で一礼をした平原さんは、ごく自然に後ろを振り向き、スタンドにも一礼をした。
そこにいるはずの、ファンとともに。
そんな想いを感じたのは、私だけだろうか。
美しい独唱のあと、再度平原さんはスタンドの方を向き、一礼をした。
その歌声同様に、美しい所作だった。
2017年に生を受けたサラブレッド7,262頭のうち、ダービーのゲートをくぐることができるのは、たったの18頭。
さまざまな人の想いを乗せて、その栄光の18頭がスタートの瞬間を待つ。
画面は、無敗の皐月賞馬コントレイルと福永騎手を映し出す。
鐙から足を外し脱力しながらも、その表情に静かな、そして確かな意志と情熱が見える。
そのまま切り取って飾りたくなる、いい表情だ。
キングヘイローと「暴走」した初騎乗のダービーから20年経った一昨年、福永騎手は悲願を叶えている。
そのワグネリアンは皐月賞で敗れていたこともあり、ダービーでは5番人気に留まっていたが、今回は無敗のコントレイルと2度目の頂に挑む。
単勝1倍台の1番人気でダービーに騎乗するプレッシャーは、騎手冥利に尽きるものなのだろうか。
それでも、無敗、というのは怖いものだ。
無論、力が抜けている場合もあるが、欠点や短所というものが、それまでの戦績で「たまたま」出なかっただけで、本番でその見えていなかったネガティブな要素が発露することもある。
去年にしても、同じ4戦4勝の皐月賞馬は、敗れているのだ。
一敗地にまみれたサリオスとダミアン・レーン騎手の逆襲はあるのか。
歴史は繰り返すといわれる。
繰り返すのは、シンボリルドルフ、トウカイテイオー、ミホノブルボン、あるいはディープインパクトらが紡いできた無敗の二冠馬の歴史か、それとも、ライバルたちの織りなす逆襲のそれか。
どうか、全馬無事に、全力を尽くせるよう。
ゲートが開く瞬間、そんなことを願った。
コントレイルは、好スタートを切った。
2,3番手で1コーナーをカーブしていく。
サリオスとレーン騎手は中団だ。
皐月賞とは逆の位置関係。
ウインカーネリアンの刻むペースは緩く、向こう正面で横山典弘騎手とマイラプソディが先頭まで捲っていく。
2017年のレイデオロとルメール騎手を想起させる、その捲り。
このダービーの大舞台で、思い切った騎乗をするものだ。
東の名手の手綱は、年々円熟味を増すようだ。
コントレイルは、最内で動かない。
最後の直線、福永騎手は進路の開いた外目に持ち出す。
サリオスがやって来る。
しかし、恐るべきことに、福永騎手は「待って」いた。
残り200m。
ようやく福永騎手に促されたコントレイルの伸びは、際立っていた。
閃光のような、その末脚。
一瞬で突き離す。
刹那ほどの間に、サリオスに3馬身差をつけ、栄光のゴールに飛び込んだ。
ゴーグルの下で、ようやく笑みを見せる福永騎手。
2回目のダービーの美酒は、どんな味だろう。
そしてコントレイルは、父・ディープインパクト以来15年ぶり、史上7頭目の、無敗の二冠馬。
窮地を跳ね返した皐月、そして王道競馬で押し切ったダービー。
まだ、その強さの底は見えない。
不思議なもので、種牡馬は晩年にその最高傑作が現れるといわれる。
かつてサンデーサイレンスの晩年に、あのディープインパクトが現れたように。
コントレイルは、亡き父の最高傑作と呼ばれるようになるのだろうか。
ようやくゴール板前まで戻ってきた福永騎手は、安堵の表情を見せる。
そこに勝者を称える歓声はなく、ただテレビからは風を切る音が、響いていた。
無観客の下、その風の音とともに私は聴いた。
その強さを、速さを、美しさを。
私は第87回ダービー馬誕生の瞬間を、目撃した。
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ダービーに寄せて、
ウマフリさんに寄稿させて頂きました。
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