大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

断酒日記【578日目】 ~断酒とはタナトスなのだろうか

先日、町田康さんの「しらふで生きる 大酒飲みの決断」の書評を書いた。

kappou-oosaki.hatenablog.jp

町田康さんの人気もあってか、SNSだったり、いろんな場面でコメントを頂いた。

お酒との付き合いというのは、私に限らず皆がいろいろと思うところがあるようだ。

そりゃまあ、歳を重ねていけば、美味しいお酒と出会う回数も多くなるだろうし、楽しい酒席という経験も積み重なっていくし、その反面に、二日酔いの絶望感もあれば、身体との相談も増えてくることだろう。

人それぞれの付き合い方があって、面白いものだ。

おそらく大切なのは、人それぞれのお酒との付き合い方、関わり方を尊重することなのだろう。

町田さんも著書で書いておられる通り、決して禁酒したからといって、酒徒を非難したりしてはならない。

それは、お酒に限った話ではないのだが。

さて、その頂いたコメントやメッセージの中で、「禁酒とは、タナトスのようですね」というものを頂いた。

タナトスとは、久しぶりに聞いたので調べてみたが、

① ギリシャ神話で「死」を擬人化した神

② フロイトの用語。攻撃、自己破壊に向かう死の本能をさす。⇔エロス

Weblio辞書より

とのことだ。

ここでいうところの「タナトス」とは、②を指すのだろう。

人は、その内面に相反する二つのものを同時に持っている。

最も大きいところでは、フロイトが定義したように「生の衝動=エロス」と、「死への誘惑、自己破壊=タナトス」というものがあるのだろう。

そこまでいかなくとも、「変わりたい自分」と「現状を維持したい自分」という相反するものを持っていたり、「大嫌い!」と同時に「大好き!」という感情を持っていたりする。

それはどちらかが本音だったり、本当の姿、というわけではなく、どちらもあるのが人間という存在なのだろう。

その両極を知ったうえで、自分にとってバランスのよい状態に身を置くことができる。

遙か2,500年前に、お釈迦様はそれを「中道」と呼び、悟りへの道であると説かれた。

さて、余談が過ぎたが、断酒とはタナトスなのだろうか。

町田さんも「狂気」と評しておられる通り、たしかにタナトスと思われる面も在る。

けれど、それは単純な自己破壊、あるいは自己攻撃とも、また少し違うようにも感じる。

もし単に自己破壊が目的ならば、それこそ前後不覚になるほどに飲むことで、その目的は達せられるからだ。

辛いことや悔しいことがあったときの「ヤケ酒」は、こちらの部類に入るのだろう。

意識や記憶がなくなるまで飲んでしまうのは、少なからずこうした自己破壊や自己攻撃といった要素を含んでいる。

それに比べて、断酒はどうなのだろう。

町田さんも書いておられる通り、「飲みたいのに、敢えて飲まない」というのは、一種の自己破壊であり、自己攻撃とも取れる。

それは、単に潰れるまで飲むこととは、また異なった形ではある。

そしてそれは、一つの生への欲求の形なのかもしれない。

裏の裏は、表である。

あんな母親なんて大嫌いだと思っていたのに、よくよく自分と向き合ってみると、実は深く母親のことを愛していたなんてことなんて、いくらでもあるではないか。

生の衝動たるエロスは、その終着点で死への欲求たるタナトスと入れ替わる。

たとえば、ダービーのあの興奮は、2分半後の寂寥感と虚脱感との裏返しだ。

たとえば、性衝動の絶頂においては、死が身近に感じられるではないか。

同じように、死への欲求たるタナトスは、その裏面に生への衝動たるエロスが刻まれている。

自己攻撃、自己否定の果てに、人は攻撃しても否定しても失われない、自らの生々しい生の輝きを見る。

もしかしたら、断酒とはそうした「タナトス」の発露であり、それはとりもなおさず、生の衝動=エロスとのせめぎあいなのかもしれない。

さて、余談ついでではあるが、お釈迦様は、「中道」を弦にたとえて説いておられる。

どんなに厳しく精進しても悟りを開けないと絶望していた修行僧に対して、弦は緩くてはいい音は出ないし、かといって締めすぎても切れてしまう。

ほどよく締め付けられてこそ、いい音色を響かせる、と。

その「ほどよく」とは、正解があるわけではない。

その楽器と弦の材質、それにその日の気温や湿度といったもので、変わっていくものなのだろう。

同じように、誰にとっても「ほどよい」正解があるわけでもない。

それぞれが、弦を張ったり緩めたりしながら、「ほどよい」張りを探していくだけだ。

さて、私にとってのお酒の「中道」とは、どんな状態だろうが。

それを探していくことを、楽しんでいくのがよいのだろう。