「罪悪感」は、引きこもるか攻撃するか、という2つの反応を引き起こします。
そこでつながるのではなく、「罪悪感」は幻想である、という視点をご紹介します。
名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.すべての罪悪感は、引きこもりや攻撃性をつくりだす
罪の意識を感じていると、あなたは引きこもります。
同じことをまたくり返してしまうのではないかという怖れがあるからです。
そして、自分の感情から逃げ出すために、人生の道から遠ざかったり、だれかを攻撃したりします。
その人もまたあなたと同じようにあなたから引きこもったり、あるいは攻撃するという反応にでることでしょう。
だれでも罪悪感はきらいです。
私たちは罪悪感を、まるであつあつの揚げたてのポテトのように、一刻も早くだれかに手渡してしまおうとします。
何がなんでも自分の罪悪感の責任などもちたくはないのです。
ただもう、いやでたまらないからです。
罪悪感は破壊的な幻想です。
やめようとしていることを、自分の内側にも外側にもつくりだしてしまうのです。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.384
2.引きこもるか、攻撃するか
今日のテーマは、「罪悪感」でしょうか。
何度も何度も扱っているテーマですが、それだけ私たちのなかで根源的な感情であり、それを癒す恩恵の大きいものなのでしょう。
自分は罪を背負っている、という意識
「罪悪感」とは、文字通り自分が「罪」を背負っており、それゆえに「悪い」存在である、と感じる感情のことを指します。
日本語の語義と、ほとんど同じですね。
罪人は、何らかの形で、罪を償わなくてはなりません。
それゆえ、人は「罪悪感」を抱いていると、自分をわざわざしんどくするような選択をしたり、自分を幸せから遠ざけるような行動を取ったりします。
それゆえ、あらゆる問題は「罪悪感」から派生していると見ることができるくらいです。
この「罪の意識」ですが、さまざまな場面で、人はそれを抱くようです。
誰かを助けられなかったときや、
誰かの役に立てなかったとき、
誰かを見捨ててしまったとき、
何もできなかったときといった、
ある意味で分かりやすい場面で抱く場合もあれば、
他人よりも恵まれていると感じるとき、
自分が汚れていると感じるとき、
親や地域社会、あるいは宗教から受け継いだ罪の意識、
といったものまで、実に幅広い場面で、人は「罪悪感」を抱くようです。
言い換えると、それだけ人にとって「罪悪感」は原初的な感情であり、それを好きなのかもしれません。
いや、「好き」は言い過ぎですね…
だって、誰も好き好んで「罪悪感」の沼に嵌りたくもないでしょうから笑
それこそ、引用文にある通り、「あつあつの揚げたてポテト」のように、それを誰かに渡してしまいたいとすら感じるものなのでしょから。
引きこもるか、攻撃するか
さて、そうした「罪悪感」を抱いてとき、人は二つの反応をします。
一つは、引きこもる。
もう一つは、攻撃する。
たとえば仕事でミスをして、周りの同僚に迷惑をかけたとして。
「もう、穴があったら入りたい…」と感じ、貝のように口を閉じて自分の気配を消したりしたくなったりします。
引きこもる、という反応ですね。
あるいはその反対に、「ちゃんとした指示を出していないから、悪いんだ!」と、周りに怒り散らす反応をしたりします。
攻撃する、という反応です。
引きこもるか、攻撃するか。
それは、全く真逆の反応のように見えて、同じ「罪悪感」という根源からあらわれる、双子の反応といえます。
相手が引きこもってしまうと、そこから無理やり引っ張り出して、攻撃したくなります。
あるいは逆に攻撃されると、こちらが引きこもりたくなります。
これは、相手と「罪悪感」でつながってしまっている状態、といえます。
巣穴に閉じこもっている動物を、無理やり引っ張り出そうとしたら、さらに強い力で逃げようとします。
そうすると、さらに強い力で引っ張り出そうとしたくなります。
「罪悪感」でつながっている限り、その連鎖は避けようがありません。
これは、自分が「罪悪感」を持っていても、相手が「罪悪感」を抱いていも、起こりうる鏡合わせのようなものです。
罪悪感とは破壊的な幻想です。
やめようとしていることを、自分の内側にも外側にもつくりだしてしまうのです。
引用文にある通り、「罪悪感」とは自分の内側にも外側にも、自分を幸せにしない状況をつくりだしてしまうのです。
3.「罪悪感」とは幻想
「罪悪感」とは幻想、という視点
自分を幸せから遠ざけ、引きこもるか攻撃するかという行動に至る「罪悪感」。
いつもは、そうした「罪悪感」を愛から見るという視点をお伝えしています。
「罪悪感」は愛の量に比例する、という考え方ですね。
大切な人に対してだからこそ、抱く「罪悪感」も大きくなる、という考え方ですね。
私がカウンセリングでお話を伺う中でも、そういった見方はよくしたりします。
「罪悪感」があったとして、それが問題であるというよりも、その裏側にある愛を見つめていく。
その愛とつながることができると、「罪悪感」が薄れたり、自分を責めたり罰したりすることを緩めることができるからです。
しかし今日は、少し違った視点で見てみたいと思います。
それは、「罪悪感」とは幻想である、という視点です。
先ほどの引用文にも、はっきりと書いてありました。
罪悪感とは破壊的な幻想です。
破壊的であれ、罪悪感とは「幻想」だ、と言っています。
それは、真実ではない、という視点。
「罪悪感」を抱える原因となった「罪」など、もともとなかった。
自分は大罪を犯した罪人だと思っているかもしれないが、それは幻想なのだ、と言っているわけです。
これは、非常に重要な視点です。
なぜなら、
「罪」があるからそれをどうにかして償おう、許してもらおうとすることと、
「罪」など、そもそもなかったという視点は、
まったく次元が違う話だからです。
この「罪」などもともともなかったのだ、と認めることは、非常に怖いことだったりするかもしれません。
その怖さとは、さんざん罪人のつもりで過ごしてきたのに、実は何の罪もなかったとしたら、いままでの自分がバカらしく見えてしまうかもしれない、という怖れだったりするかもしれません。
けれども、そういったおそれがあったとしても。
あなたには、もともと罪などなかった。
そちらの方が、真実なのだと思うのです。
罪は幻想、愛は真実
あなたは、自分のことをとても罪深い人間だと思っているかもしれません。
そんな自分のことを、許せないと感じてきたかもしれません。
どれだけ償っても、償いきれないと、苛まれてきたかもしれません。
それによって、引きこもったり、あるいは不本意ながら誰かを攻撃してきたかもしれません。
そのいずれであっても。
あなたがその人を大切にしたい、という想いがあったことは、真実のように思うのです。
あなたがどれだけ、その「罪悪感」で苦しんできたのか。
それを想うと、罪がなかったなどとお伝えするのは、少し酷なことかもしれません。
けれども、「罪悪感」は幻想です。
あなたは、大切な誰かを笑顔にできなかったことに、罪を感じているのかもしれません。
あるいは、誰かを愛せなかったことを、罪のように感じているのかもしれません。
もしかしたら、愛する人を助けられなかった罪を、ずっと償おうとされてきたのかもしれません。
もし、そうだったとしても。
あなたには、ひとかけらの罪もありません。
あなたのそうした姿は尊く、そして愛に満ちあふれています。
想像してみてください。
あなたを心の底から大切に想う人が、「あなたを笑顔にできなかった」と責めていたとしたら。
あなたは、その人にどんな罪があると思われますでしょうか。
あなたは、どんな言葉をかけてあげますでしょうか。
もし、できるならば。
その言葉を、あなた自身にも、かけてあげてください。
きっと、引きこもるよりも、攻撃するよりも。
そちらの方が、真実に近いように思うのです。
今日は「罪悪感」が引き起こす2つの反応と、そもそも「罪悪感」は幻想である、という視点についてお伝えしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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