さて、断酒588日目である。
月数にすれば、19か月と少し。もう日数よりも、月数の方がピンとくる期間になってしまった。
先般、書評を書いた町田康さんの「しらふで生きる」を読み返してみたりしている。
町田さんの書評に触れて、断酒というものの正体、あるいはその意味が、おぼろげながら私なりに感じることが多くなった。
それは、外側に答えを求めない、と表現できるのだろうか。
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ここからの話は、あくまで『私にとって』という個人的な話であり、一般論ではないことに注意されたい。
そうではない人もたくさんいると思うし、ただ『私が』そう感じる、というだけの話だ。
「お酒をやめたら、そうなる」と一般化することもできない、ただの私論である。
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かつて、お酒を飲んでいたころ。
私にとってその時間は、陶酔感とつながりのある感覚に酔える、特別な時間だった。
その時間を確保するために、何やらかんやら頑張って、そのご褒美などの理由付けをして、飲んでいたように思う。
ただ、振り返ってみると、そうすることで「いま」というこの果実を、限りなく「薄める」ようにしていた気がする。
いま、頑張れば、お酒が飲める。
あの、特別な時間のために。
という思考が働いていたような気がする。
言い方を変えれば、未来のためにいまを犠牲にしていたのかもしれない。
もう少し言えば、自分の外側に答えを求め続けてきたのかもしれない。
あるいは、「青い鳥」よろしく、どこか外側にしか桃源郷がないと思っていたのかもしれない。
ところが、その桃源郷ときたら、たしかに桃源郷なのだが、そこに留まり続けることはできぬ。
もう少し、もう少しだけ、ここにいさせて…と杯を重ねるうちに、いつの間にやら許容量を超え、絶望的な頭痛とともに訪れる二日酔いか、あるいは酩酊してなにかをやらかす、というオマケがついてくる。
要は、お酒のもたらす快楽とそのキックバックが、強烈すぎるのだ。
それが強烈であるほどに、「いま」起きている、自らの心の中の何がしかの機微、陽の光や風の感触の移ろい、あるいは目の前の人の表情の変化などを見落としがちになってしまう。
結局、チルチルとミチルが自宅の上のベッドの鳥かごに、青い鳥を見つけたように。
外側に答えはないのかもしれない。
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お酒を飲んだときの全能感は格別で、また何がしかの霊性や、あるいはインスピレーションを得られそうに感じることも多かった。
ふわふわと浮いた感覚、ぼんやりと自分が溶けていく感覚のなかに、そうしたものがあると思っていたのかもしれない。
けれど、酩酊しているときに感じたそうしたものの多くは、翌日の朝になってみると、とても使いものにならない、ただ与太話だと感じることが多い。
与太話ならば与太話として、楽しむことができればいいのだが、お酒、ひいては酩酊が霊性を与えてくれるというのは、どうも今の私にとっては疑わしい。
お酒というよりも、誰かと話をする中で、そういった着想を得られることはある。
それは、別に必ずしもお酒と酩酊が必要というわけではない。
結局のところ、現実を変えるのは、酩酊したときのアイデアやインスピレーションなどではなく、確固たる意志と、それに基づいた地道な地道な積み重ねでしかない。
言い換えるならば、霊性は、しらふにこそ宿るのかもしれない。
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いま目の前にある現実こそが、全て。
断酒というものは、どこかそれを教えてくれたような気がする。
それは、前述の町田さんが書いておられるところの「幸せにならなくてはいけない、幸せになって当たり前、という前提を捨てる」ということに近いのかもしれない。
それは、幸せになることを諦めたり、ニヒリズムに陥ったり、あるいは退廃的になるというわけではない。
ただ、目の前のものから感じる些細なことを、心地よく受け取る、と表現できるだろうか。
それは換言するなら、
外側に答えを求めない
あるいは
霊性はしらふに宿る
ということなのかもしれない。