音楽は時間の芸術といわれることがある。
確かにその通りだと思う。
一つの音と、その次の音との関係性が、音楽を音楽たらしめている。
二つの音の関係は、リズム、メロディ、ハーモニーをうみだし、音に命を宿す。
ときにその音楽は、胸の奥で熾火のように残っていた若き日の情熱を再び燃え上がらせる。
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そんなこんなで、またブラームスの音楽に寄せて極私的に書いてみたい。
今日はピアノ三重奏曲第1番ロ長調、第1楽章。
先日のヴァイオリン・ソナタとは違って、この曲は生で聴いたのは1回だけのような気がする。
このCDの演奏者の「トリオ・フォントネ」が好きで、よく彼らの演奏したCDを集めていた。
このピアノ・トリオの何が素晴らしいって、ブラームスが弱冠21歳(!)の若き日に書いた初版を、それから35年経った晩年のブラームスがリライトしているのである。
いま演奏されるのは専らその改訂版の方で、若き日の溢れんばかりの情熱と燃え盛るエネルギーと、深い孤独の中に諦念を感じさせるような晩年の雰囲気が見事に共存している。
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曲の出だし、印象的な一音から連なる瑞々しい雰囲気を持った主題をピアノが歌う。
後に続く二人のためのレッドカーペットのような、静かだけれど熱を帯びた主題。
続いて、チェロがその主題を伸びやかに歌いあげる。
人間の声に最も近い弦楽器がチェロだと言われるが、若き日の青年がその抑えきれない情熱を歌い上げるようだ。
抑え気味に歌いつつも、胸の奥に燃える生命の強烈な輝きは隠しきれない。
若さとは、不安定さと同義でもあるのかもしれない。
透明感のあるロ長調の旋律で、その胸の奥に秘めた情熱を歌い上げる。
拡散するようで、その一方で収縮していくような、絶妙のバランスで。
その危うくも見えるバランスの上を、ヴァイオリンが同じ旋律を霧雨のような優しさで歌う。
感情を抑えつつも、ピアノとチェロとの逢瀬を心底楽しむような。
この三つの楽器がそれぞれとの関係を楽しみながら邂逅していく曲の冒頭が、本当に美しい。
おそらくこの第1主題は若き日のブラームスが書いたものだと思うが、晩年のブラームスはどのような思いでリライトしたのだろうか。
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若き日々、
私は青臭い夢を抱き、
世の理を知りたくてもがき、
打ち明けられぬ想いに悶え、
そして自分ではない何者になろうと必死だった。
特別だと思っていた自分という存在は、
周りを見れば自分の力と知恵のなさが身に染みた。
それでも、
何かになろうと、
何かをできるようになろうと、
来る日も来る日も同じことを繰り返していた、
あの帰らぬ日々。
あの日々は不安定で、
結局私は何者にもなれなかった。
けれど、振り返ってみるとピアノ・トリオの第1主題のように、美しい旋律を奏でているようにも思える。
もしも、私がいつか晩年のブラームスと同じような年代になったとき、若き日々をどのようにリライトするのだろうか。
やはり、ブラームスのように青さの残る第1主題はそのままにするのだろうか。
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おそらく晩年のブラームスが大幅にリライトしたと思われる後半。
第2主題から連なる、哲学的な空間と、晩年のブラームスにしか出せない青白く燃え上がる情熱のようなセッションの瞬間がある。
もしも青春の炎がオレンジと赤の大きな炎であるなら、晩年のその炎は小さく青白く燃える炎だ。
その青白い炎の熱量は、圧倒的に高く、触れるものすべてを溶かすようだ。
年を重ねるとは、情熱を失くすことではない。
収縮こそすれど、胸の奥の炎が無くなることはない。
その収縮は、熱量の密度を上げる。
突如燃え上がる熾火のように、晩年のブラームスが描く情熱の炎は、聴く人の心を揺らす。
そして、第1楽章の最後の3音。
いつもこの三人が一緒に奏でる最後の和音で、演歌の歌手のように、私は右手の拳を思い切り握りしめてしまう。
なんだ、俺の胸の奥の熾火も、まだまだ消えてないじゃん。
自分の中の情熱の炎を気づかせてくれる、ピアノ・トリオ。
私の大好きな曲の一つである。