大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

時には、昔の話を。 ~絵葉書と星座と

あまり縁のない場所を訪れることが、時にあったりします。

自分で行くと決めた旅行ならば、自分の好きな土地や、興味のある名所だったりするのですが。

誘われたり、仕事だったり、あるいは呼ばれるようにして訪れる場所が、時にあったりします。

なかなか、ここには来れないだろうな。

そんなことを感じたりもします。

もちろん、行こうと思えば、いつだって、行けるのですが。

そういうわけでもなくて、ただ、そのとき、その瞬間に訪れたことに、意味があるような。

そんな場所が、時にあったりします。

不思議なもので、足が向くかどうかは、距離はあまり関係がないようにも感じます。

以前に、京都にずっと住んでいる友人と話していたときに、「寺社仏閣なんて、何年も行ってないわ」と笑っていました。

「世界遺産とかが、すぐ近くにあるのに?」と、私も笑っていたのを思い出します。

人の興味と行動とは、そんなものなのかもしれません。

 

あるお寺を、訪れたことがありました。

駅から続く道は分かりづらく、途中で引き返したりもしたように覚えています。

薄曇りの、ぼんやりとした春の日でした。

何を考え、何を感じていたのか。

いまの私が記憶しているそれと、そのときの私とは、どこかつながっているようで、つながっていないようにも感じます。

山門をくぐって、本堂に至る道は、苔がたくさん生えていました。

ピンク色の、小さな花が咲いていました。

とても悲しいとき。

その悲しさを感じないくらいであったとき。

境内で咲いていた、しだれ桜の色を、思い出します。

それはまた、そのピンクの小さな花が咲いていたお寺とは、違う場所なのですが。

ただ、どちらにも、花を見ている私がいました。

 

その訪れたお寺で、絵葉書を買いました。

何枚かがセットになった、季節の写真の絵葉書。

それはどこか、その場所を訪れたスタンプのようでもあり。

あるいは、日付の入っていない記念コインのようでもあり。

レターボックスを開けるたび、私をその花の前に連れていってくれるようです。

だから、ぜひまたその場所を訪れたい、というわけでもなく。

ただただ、その場所があったということだけで、十分なようにも感じるのです。

ただ、その場所があった。

ただ、その場所を、訪れた。

それは、私という夜空を彩る星のひとつのようでもあります。

 

そんなわけで。

絵葉書なので、葉書として使われることが本来の目的なのですが。

なかなか、その絵葉書を使えずにいるのです。

そして困ったことに、そんな絵葉書が、増えてきました。

出せない、絵葉書。

どこか、その絵葉書たちは、私の夜空で星座をつくっているようにも思うのです。