大嵜 直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー見習い。

言えることは、癒えること。

やまとうたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。

世の中に在る人、事、業、、繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの、聞くものに付けて、言ひい出せるなり。

花になく鶯(うぐひす)、水にすむ蛙(かわづ)の声をきけば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。

力をも入れずして、天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神をも哀れと思はせ、男(をとこ)女(をむな)の仲をもやはらげ、猛き武人(もののふ)の心をも慰むるは、歌なり。

 

紀貫之

古今和歌集「仮名序」

 

千年以上も前の歌人の言葉を引くまでもなく、詩、言葉というのは不思議な力を持つようだ。

そして、それは「やまとうた」のような美しい言葉に限らず、日々私たちが発する言葉一つ一つに宿るのだろう。

 

 

言葉は人を癒す。

 

我が身を振り返ってみても、苦しいとき、辛いとき、悲しいとき…暗闇にいるときに、その闇を照らす灯台のような言葉に、いつも救われてきた。

ときに誰か友人の声がけに、ときにこころに響く曲の歌詞に、ときに本の中で出会った言葉に。

 

言葉は人を救う。

 

それは、和歌のような美しいものや、名言集の凛とした言葉や、愛と思いやりを以て発せられたあたたかな言葉だけではないのだろう。

 

言葉は、人を癒す。

 

胸が張り裂けそうな悲しみ、こころの奥底に沈殿した澱、口にしたくない弱さや汚さ、なぜ私がという凍えるような怒り、地吹雪の中にいるかのような寂しさ、あるいは、痛み。

 

それらは、言葉にすることで空に還っていく。

 

言葉にすることは、存在を認めることだから。

無視されるほどに、痛みは、かまってほしくなる。

 

言葉にすることで、癒える。

 

いや、言葉にしなければ、癒えない。

 

 

どんな言葉であれ、言えることは癒えることだ。

 

たとえば、息子はいつも私とのコミュニケーションで齟齬があると、こう言って拗ねる。

 

「どうせおとうは、むすめのほうがすきなんでしょ」、と。

 

そんなことないよ、と懇々と説明するが、なかなかご理解いただけず、話しは平行線をたどる。

 

男親にとっての息子への愛情と、娘への愛情は同じであるはずもなく、違った形になるのも仕方ないのだろう。

それを息子に納得して頂くほど、私はうまく説明できないようだ。

 

いつも、愛情はすれ違う。

 

けれど、それは本質ではない。

 

それよりも、大事なのは。

 

ほんとうのところ、息子は私に愛されていることを、知っている。

 

そのことだ。

 

もし、それを知らなかったとしたら。

息子の問いは、答えを聞くのが恐ろし過ぎて、聞けないではないか。

 

少し形は違えど、心の底から惚れた相手に、愛の告白をするときに、その答えを聞くのが怖くない人はいないだろう。

誰しもが、ユリウス=カエサルのルビコン川よろしく、命がけの覚悟を以て、その問いを言葉にする。

 

ぼくのことをきらいなの?

 

そう聞くことができるのは、癒されているからだ。

 

「おとうさんは、ぼくをあいしてくれていたの?」

「おかあさんは、わたしをきらいだった?」

 

そう、口に出して言えるのであれば、癒えている。

 

癒されていないのならば、その問いを封印しようとする。

 

ならば、口に出すことだ。

 

世界というのは、可塑的で。

 

口に出すと、それを受け止めるように形を変える。

 

言えることは、癒えること。

 

出てくる言葉に、何も色をつけず。

ただ、流れていくように。

 

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