大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

電話と、コミュニケーションに寄せて。

電話というのも、不思議なコミュニケーションツールだ。

相手の顔が見られない分、寄り添おうとする。

目を閉じていると、音や香りに鋭敏になるように。

相手の声色、トーン、間合い、ニュアンス…そういったものから、相手の心情を想像し、慮り、聞き、話す。

顔を見ながら話した方が、メリットはもちろんあるのだろうけれど。

それでも、制限は時に豊かさを生む。

顔を見られないということが、相手の情感や想いを、想像する手助けになることはある。

とかく、私たちは目に見えるものを大切にする。

形になっているものを、重視すると表現した方がいいだろうか。

目に見えるもの。
言葉になったもの。
形になったもの。
あるいは目に見える行動…などなど。

けれど、ほんとうに大切なのは、その裏側にあるようにも思える。

ことばになる前の、想い。
かたちになる前の、情熱。
おこないの前の、思考。

そういったものは、目に見えないのかもしれない。
けれど、コミュニケーションにおいては、それを想像することが、他者との架け橋になる。

どんな意図で、ああ言ったのだろう。
どういった想いで、この行動をしたのだろう。
いま、何を考えているのだろう。

それを想像したとしても、相手がほんとうにそう思っていたのかは、分からない。
それを相手に問うたところで、同じだ。
相手が正直に答えてくれるのかは、別問題だからだ。

けれど、想像しようとしなければ、他者との間に横たわる、暗く冷たい溝に橋が架かることはない。

コミュニケーションとは、その暗く冷たい溝に、橋を架け続ける普段の努力のことであり、それは想像力という人に与えられた素晴らしい能力を必要とする。

時に、電話というツールは、その想像力を使うことを、鍛えてくれるようにも思う。

さて、そんなことを書いておいてなんだが、以前に比べると電話を使うことが減ったようにも思う。

メールやLINEなどの非同期コミュニケーションの便利さを知ってしまったいま、同期コミュニケーションを強いる電話は、時間泥棒と評判が悪い。

仕事でも、急ぎの案件以外は、メールなりで済ませることが多くなった。

電話をかけること自体が、相手の負担になるかと思うと躊躇してしまう。

新入社員のマナー研修などで、電話応対の項目はいまもあるのだろうか。

数年前、ワーカホリックに仕事をしていた時分には、「○○さんから電話ありました。折り返し電話してください」メモの山に埋もれていたのを思い出す。

時代は、変わるものだ。

それでも、急ぎ回答が必要な案件などは、やはり電話に頼ってしまう。

先日も、そんな電話をかけた。
「○○さんをお願いできますか」
「少々お待ちください…」
そう言って、相手の方は保留をする。
流れてきたのは、流麗な、それでいてメロディだった。

Here comes the sun, doo doo doo doo

Here comes the sun, and I say

It’s all right

ビートルズの、ヒア・カムズ・ザ・サン。

あれは中学校の頃だっただろうか。
よく、聴いていた。

Little darling, it’s been a long cold lonely winter

Little darling, it feels like years since it’s been here

ジョージ・ハリスンの甘い歌声を思い出しながら、鼻歌まじりになる。

メールなり、チャットなりであれば、発生することもない保留音。

その時間というのは、どんな意味付けもできるのだろう。

面倒で、無駄な時間でしかないと捉えることもできるし、忙しい最中に、ほっと一息つける時間にもなる。

やっぱり、いい曲だなぁ。
たまには電話も、いいものだ。

そんなことを思いながらぼんやりしていたら、電話口から

「……ーし…もしもしーし…」
と聞こえてきた。

鼻歌が聞こえていなかったか、どぎまぎしながら返事をした。

顔が見えなくて、よかったと思う。

ときには、電話もいいものだ。