かつて横山秀夫さんが、その小説の中で「電話はかけた方が絶対的に有利だ」と書いておられた。
全くその通りだと思う。
伝えたい内容を自分のタイミングで、相手にアプローチするのだから、当然の話だ。
けれど、ほぼすべての連絡がメールやチャットといった「非同期のコミュニケーション」で済むご時世になってしまった。
「同期コミュニケーション」を強いる電話の存在意義は、おそらく情緒的なものに限定されていくのだろう。
「同期」にコミュニケーションを取ること自体に価値があるのは、非常にパーソナルな、情緒的な関係性に限定される。
「声が聞きたい」というように。
そうではない関係から電話を受けると、「時間泥棒」と表現されることもあり、ビジネスの上での電話の重要性は薄まっていく一方だ。
私が社会人として歩き始めた頃は、電話応対のマナーなどを学ぶ機会があって、「コールは〇回までに出る」などといったマナーがあったように覚えている。
されど、そもそも電話を使う機会が減れば、それもなくなっていくのだろうか。
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電話をかける方、受ける方。
コミュニケーションにおいて、発する側と受ける側というポジションに置き換えられるだろうか。
その二つの立場があれば、話す方が主導権を持っていると思われている。
心理的な状態でいえば、話す方が「自立」、聞く方が「依存」という関係に置き換えられる。
電話をかける方、受ける方。
話をする側、それを聞く側。
メッセージを送る方、受信する方。
あるいは、
自立の側と、依存の側。
リーダシップと、フォロワーシップ。
コミュニケーションに限らず、関係性において面白いのは、その立場がくるくると入れ替わることだ。
誰かとコミュニケーションを取ることを考えても、片方がずっと「話し続ける」ことはできないはずだ。
相槌でも何でも、何かを返すからこそ、コミュニケーションが成立する。
同じように、誰か、または何かとの関係性においても、それぞれの立場が入れ替わるからこそ、人も関係性も成熟していく。
たとえば、成人して働き始めて、親の気持ちが分かるように。
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さて、電話のような「同期コミュニケーション」の場合は、「自立」と「依存」は「話す側」と「聞く側」にそのまま当てはめることができる。
同期であるがゆえに、つながっている時間は「話す」「聞く」が成立するからだ。
面白いのは、「非同期コミュニケーション」 の場合だ。
チャットなりでメッセージを送る側が「自立」かといえば、必ずしもそうでもないように感じる。
相手からの返信が来ずに、何度もメッセージを送ってしまうことは、よくあるシチュエーションであるし、誰にでも経験があるのではないか。
「非同期コミュニケーション」では、非同期であるがゆえに、主客関係が決まらず
、ふわふわと宙に浮かんでいるようだ。
電話のように同じ時間を共有していれば、一方が「自立」となれば、もう片方は「依存」になる。
それはともに共存はできないものだ。
ところが、メールやチャットは時間を共有しない。
そのメッセージを読んでいる私と、それを送った相手は、リンクしていない。
仮に「自立」の立場から主体的にメッセージを送ったとしても、返信が帰って来ないな、もしかしたら、変な意味で取られちゃったのかな、と不安になり「依存」の側に陥ることもあるだろう。
冒頭の横山秀夫さんが語った、「電話はかけた方が有利だ」という言葉は、「非同期コミュニケーション」の上では成立しない。
受ける方が主導権を握っている場合もある。
かくも、「非同期コミュニケーション」というものは、奥深く、また難しい。
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そう考えてみると、「非同期コミュニケーション」を取る上では、「同期」のそれよりも、はるかに相手との関係性への信頼というものが求められる。
相手と、どのようなコミュニケーションを取りたいのか。
どのような、関係を築きたいのか。
それは、とりもなおさず、自分自身をどう信頼するか、ということと同義なのであるが。
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電話が発明される以前の世界は、直接会う以外は、手紙、電報などといったツールが使われていた。
まさに、「非同期コミュニケーション」である。
時代はめぐる、という。
そういえば、かつて平安の世に、想いを歌に託して贈り合った貴族たちがいた。
彼らがどうやって主体性を保っていたのか、今だからこそ学ぶことは大いにあるのかもしれない。
やすらはで寝なましものをさ夜ふけて
傾(かたぶ)くまでの月をみしかな
赤染衛門「後拾遺和歌集」