大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

「どうして自分はこの状況を望んだのか?」という問いは、私たちがどうしても伝えたい本音を教えてくれる。

カウンセリング的なものの見方として、「どうして自分はこの状況を望んだのか?」と問う見方があります。

その問いは、私たちがどうしても伝えたい本音を、教えてくれるようです。

名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。

1.あなたの人生で起こることのすべては、重要な相手へのコミュニケーション

あなたに起こることのすべて、そして、あなたが人生でしてきたことのすべてはコミュニケーションです。

人生での不幸な出来事に関して、自分自身に聞いてみましょう。

「私はだれにコミュニケーションし、どんなメッセージを与えていたのだろうか」と。

 

あなたに本当に見ていく意思があるのならわかるでしょう。

つねに自分自身、神、両親、パートナーや重要な相手、さらには過去のパートナーやたまたまそこにいあわせただれかなどにメッセージを送っているのです。

 

ところが潜在意識におけるコミュニケーションは、意識的なそれよりも成功するチャンスがずっと少ないのです。

そもそも不幸な事態が起きたのは、私たちが現実にコミュニケーションするのを怖れるあまり、自分自身につながって相手に直接コミュニケーションするよりも、何らかの事態が起こるほうを選んだからなのです。

 

否定的なことが起こるのは、ときには仕返しの手段であったり、助けを求める手段だったり、あるいはだれかに愛していると伝える手段だったりします。

これらはどれも自己犠牲です。

あなた自身の生命にもはなはだ危険です。

だれかの愛や承認を得るために自分の身を犠牲にするとしたら、あなたと相手とのあいだには重大な誤解があるのです。

 

「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.412

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2.「どうして自分はこれを望んだのだろう?」

今日のテーマは、難しいですね。

一つのテーマというよりも、カウンセリング的なものの見方といった方が、いいのかもしれません。

 

カウンセリング的なものの見方の一つとして、「起こっていることは、自分が望んだこと」というものがあります。

ただこれは、自分の心が弱っているときは、とても厳しいものの見方になる可能性があります。

辛い、苦しい、痛い、寂しい、無気力…そうしたネガティブなものがあるときは、それを吐き出し、寄り添う方が先です。

その上で、です。

「どうして、自分はこれを望んだのだろう?」

そのように問うことは、私たちの視野と心の器を広げてくれます。

否定的なことが起こるのは、ときには仕返しの手段であったり、助けを求める手段だったり、あるいはだれかに愛していると伝える手段だったりします。

引用文にあるように、多くの否定的なできごとは、私たちが心の奥底に抑え込んできた想いを吐き出すために起こる、と見る視点があります。

その想いは、そんなに種類があるものではありません。

「ごめんなさい」

「愛しています」

「たすけてください」

それは、私たちのコミュニケーションが、そんなにも多くの種類があるわけではないことと同じです。

結局のところ、伝えたいのは相手への想いであり、愛に収れんします。

 

個人的な話をさせてください。

私がハードワークと犠牲にまみれていたころ。

交通事故を起こしたことがあります。

居眠り運転をして、止まっていたトラックに突っ込んでしまいました。

それほどスピードが出ていなかったので、幸いにして自分にも相手方にもケガはありませんでしたが、トラックの後部と私の車の前面は、ひどいありさまでした。

それは引用文にあるように、否定的な、不幸なできごとです。

そんなできごとを、どうして私は望んだのか。

考えてみるとそれは、「助けてください」「もう限界です」というコミュニケーションの代わりだったように思います。

そうしたメッセージを周りの人に送るかわりに、事故を起こした。

そんなふうに、見ることができます。

あなた自身の生命にもはなはだ危険です。

まさに、引用文にある通りです笑

 

もちろん、その見方が正しか、正しくないかなんて、分かりません。

ただ、そういう見方をすることで、自分に何がしかのフィードバックをすることができます。

「どうして私は、そのできごとを望んだのだろう」

「そのできごとを通じて、私は誰に何を伝えたかったのだろう」

すぐには分からないかもしれません。

また、その伝えたかったことは、幾層にも重なったネガティブな感情に、覆われていることもよくあります。

けれども、その奥底に眠る、ほんとうに伝えたかった本音に触れると、私たちはとても安心します。

それを伝えることは、私たちが生きる理由ともいえるからです。

3.伝えられる言葉が有限だとしたら、誰に何を伝えますか?

私たちは、とかく自分の気持ちや心を、軽く扱い過ぎてしまいます。

そして、言葉に対しても、とても軽く扱ってしまっています。

太陽がまた明日も昇ることと同じように、自分の生を当たり前と思ってしまいます。

かの蓮如聖人の言葉ではないですが、「朝には紅顔ありて、夕べには白骨となれる」のが、私たち人間です。

私たちの肉体は、永遠に存在することはできません。

それは、唯一と言ってもいい絶対的な真理です。

私たちは、有限ともいえる時間のなかで生きています。

日常に埋もれてしまうと、すぐにそれを忘れてしまうのですけれどね。

けれども、この与えられた肉体は、いつか朽ち果てます。

時間は、有限です。

私たちは、有限の時間の中でしか、想いや言葉を伝えることはできません。

いつか言おう。

また今度、伝えよう。

次の機会に、会おう。

そうした「いつか」「今度」「次」が、はかなく消えてしまうことを、誰もが経験します。

コミュニケーションは、有限のなかにしか、宿りません。

 

さて、そうだとしたら。

あなたは、誰に何を伝えたいと思いますか。

もし、伝えられる言葉が、有限だとしたら。

もし、この人生で、あと100文字しか使えないとしたら。

誰に、どんな言葉を贈りますか。

そう考えたとき、出てくる言葉。

それは、もしかしたら、あなたが人生でどうしても伝えたい想いであり、成し遂げたいコミュニケーションなのかもしれません。

コミュニケーションは、有限のなかにしか宿りません。

けれども、その想いを伝えることができたとき。

その瞬間は、永遠のなかにあります。

とても、不思議なのですけれどね。

有限の時間のなかに、永遠を見いだすこと。

それは、不完全な人間のなかに、完全さを見ることと、同じなのかもしれません。

それこそが、究極のコミュニケーションであり、私たちがこの与えられた生のなかで、どうしてもしたいことなのかもしれません。

 

あなたが、どうしても伝えたかったことは、なんでしょうか。

それを、だれに伝えたかったのでしょうか。

もしよければ。

今日は、それを伝えてみてはいかがでしょうか。

そのだれかに、直接会えるのかどうかは、あまり関係がありません。

心のなかで、それを伝えてみてください。

それだけで、満たされるものが、きっとあります。

 

ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

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