過去の一切の出来事を肯定したとき、人は多幸感に包まれる。
あぁ、今日この日のために、すべての出来事はあったのか、と。
しんどかったあの出来事も、辛かったあの思い出も、消し去りたかった黒歴史も。
すべてそれが起こってくれたおかげで、いまこの瞬間の私がある、と。
それは、バラバラになっていたパズルのピースがぴたりと嵌る瞬間でもある。
なぜ、そのことが起こったのか。
なぜ、いままでこのことにずっと心を煩わせていたのか。
なぜ、誰もが素通りすることに心が傾くのか。
なぜ、いままでその痛みを後生大事に持ち続けていたのか。
そのパズルが、ある日ある瞬間に、ぴたりと嵌る。
それは、ただの1ピースの過不足もなく、今まで歩んできた道程のすべてに意味が与えれられる。
完成したそのパズルから浮き上がるのは、「わたし」自身、そのままの姿だ。
いままで捨てたくて捨てたくてたまらなかった、あの暗い色のピースが、もっとも大事な一部になっていることに気づく。
そこには、恨みも辛みもなく、ただ愛と感謝だけが静かに揺蕩っている。
これが人生か、なんと美しきことか。
そう呟かざるを得ない体験が、あるとして。
当然ながら、そんな場所にいつまでもいられる訳ではない。
体験には、終わりがある。
どんな素晴らしい体験にも、どんなかけがえのない経験にも、過ぎ行く時からは逃れられない。
体験は、いつか終わりがやってくる。
新しい痛みは現れ、こころのさらに深い部分から深い闇が染み出て、傷はまた口を開ける。
輪廻が回りゆくように、人の生きる道もまたうねり、そして肯定すべき過去もまた増えていく。
完成したパズルはより大きなパズルの一部でしかないことに気づく。
辿り着いた宿場町は、実は新しい目的地への一里塚でしかない。
季節のめぐりに終わりがないように、人が生の営みもまた、終わりがない。
海の波のように、川の流れのように、音のゆらぎのように。
ただ、その過程を繰り返す。
ただ、その渦の中で揺蕩っている。
だからといって、その体験に意味がない訳ではない。
その地点に、一度でも立つことができたこと。
それは、たしかな灯火となって足元を照らす。
それはそうだとして。
一つたいせつなのは、いまの多幸感に、過去がどうだったかは関係がない、ということかもしれない。
過去にどんな痛みがあろうと、
過去にどんな出来事が起ころうと、
過去にどんなことを言われようとも、
過去にどんな仕打ちを受けようとも、
いま現在この瞬間の幸せには、じつはあまり関係がない。
同時に、過去のどんな満足や幸運や僥倖があろうとも、いまこの瞬間に不幸せになることもできる。
選択する権利は、つねにいま、このわたしの掌中に在る。
どのカードを選んでもいいし、選ばなくてもいい。
どもパズルを嵌めてもいいし、嵌めなくてもいい。
どの過去を肯定してもいいし、否定してもいい。
それは、誰の頭上にも平等に輝く、黄金律なんだ。