時に、万物清らかな清明。
日中は、春というよりも初夏を感じる汗ばむ陽気になってきた。
花が咲き、空は青さを増して澄み渡り、風に新緑の香りを感じる。
春が深まるにつれて空気は潤い、冬の間はなかなか見られなかった虹が出やすくなる時期。
七十二侯では「虹初見、にじはじめてあらわる」と呼ぶ。
何もしなくても、季節はめぐる。
その移ろいは、愛と信頼に似ている。
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「信頼」の対義語はなんだろう、とよく考える。
「裏切り」ではないように思う。
「信頼」とは、相手が自分の期待通りにいくと信じることではなく、また、すべてが思った通りにいくと盲目的に信じることでもないからだ。
「いつか、あの人も目を覚まして、自らの非を認めてくれるだろう」
あるいは、
「ものごとは、すべて完璧にうまくいくだろう」
という態度は、残念ながら「信頼」ではない。
「信頼」という態度は、その対極に在る。
「信頼」とは、いま、そのままの相手を受け入れ、理解し、共感し、許し、涙し、そして手放す行為を指す。
あるいは、すべては完璧にうまくいっている、という態度を指す。
「信頼」とは、外側からの風雨に消されることのない、自らの内に輝く温かな種火だ。
その種火を宿す限り、外でどんな暴風雨が吹き荒れようとも、相手がどんな態度を取ろうとも、あるいはどんなうまくいかないことが起きようとも、何も関係がなくなる。
それは、犠牲でも我慢でもない。
自らの内から湧き上がる、ほのかに温かいその種火に触れ続ける限り、誰もその人を裏切ることなどできはしない。
そして、その種火は、いつでも、どこでも、誰の中にでも、必ず、在る。
信頼するとは、その種火から目を逸らさずに見つめ続ける、ということだ。
ロウソクの火を眺めていると、ただいまこの一瞬に集中してしまうように。
そこには、過去の後悔もなく、未来の憂慮もない。
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この「信頼」という行為は、季節を流れに目を凝らすことに似ている。
誰しもが、当たり前にしているように。
季節はめぐり、移ろい、流れていく。
散りゆく桜を惜しみながら、愛でること。
鈴虫の音色に、耳を澄ませること。
凍れる朝、張り詰めた冷気で深呼吸すること。
月が満ちるのを、心待ちにすること。
久しぶりに現れた虹の美しさに、心を震わせること。
「信頼」とは、そんな簡単で、当たり前のようなもの。
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そして、「愛」というものも同じ構造を取るように思う。
外側で何が起ころうとも、相手がどういう反応をしようとも、種火を見つめ続けることはできる。
桜が散ろうとも、春一番が吹こうとも、初霜が下りようとも。
ただ、いまこの瞬間には、何も変わりがない。
女は往々にして過去を嘆くが、「愛」は過去には存在しない。
男は気づけば未来を憂うが、「愛」は未来を知らない。
「愛」は、いまこの瞬間にしか存在し得ない。
それ以外のことを考えるとき、もうすでに余計な不純物が入ってしまっている。
それもまた、「愛」の一部ではあるのだが。
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時に、虹始見。
信頼するように。
愛するように。
美しい虹を、見よう。
朝の陽が虹のようでいて。