時に芒種、梅子黄(うめのみきばむ)。
梅の実が熟して、黄色く色づくころ。
そろそろ梅干を漬けるのに適した梅が出回る頃でもある。
梅雨も盛りか、しとしとと雨が降り続く日も多い。
家の中にいると、雨が降る音を聞くことに、どこか風流を感じる時期でもある。
梅の色、あるいは梅雨の合間の空の色。
紫陽花の色、あるいは雨粒の伝う葉の色。
コレクター気質のある私は、どこかに世界にある色を集めた一覧のようなものがないものだろうかと、いつも思う。
色づく梅の実の色を眺めると、何かの色を思い出すように。
紫陽花の色が、いつかの傘の下で咲いていた花の色を想うように。
今日の空の色に、いつか見上げた空の色を思い出すように。
色には記憶が宿る。
あの日の、あの空の色が、記憶の中で薄れていくことは、どこか寂しさを感じる。
あの日の、あの空の色は、もうどこにもないのだろうか、と。
世界のどこかに、すべての色を集めた保管庫があったら。
それは、赤や青といった普通名詞ではなくて。
この日の、この瞬間の、この梅の実の色、という名称になるのだろうか。
もし、そんな保管庫があっとしたら。
どうやって検索するのかは知らないが、その見たい色を、そっと引き出して。
その色を、慈しむように眺める時間を、夢想してしまう。
この、一般化されることへの怖れは、何だろう。
薄紅色、悲しみ、桜色、ざくろ、Tシャツ、歌声、紫陽花、愛、アスパラガス…
それらの語が指し示すものには、もう何かは宿っていない。
そこには、ただ、精のない抜け殻が横たわっているだけだ。
そこには、何もない。
いま、この目の前の、何がしか。
あの日の、あの瞬間の、何がしか。
それが、何か違うものと並べられることに、どこか痛みと寂しさを感じる。
一緒に並べることができないものを、同列に扱うことへの理不尽と、困惑を覚える。
けれど、生きるとは一般化と帰納の旅でもある。
黄色、という概念で括るからこそ、色彩について学ぶこともできる。
怒り、という名を付けるからこそ、それについて考えることもできる。
共通項を見つけ、ひとくくりにしてまとめ、それを理解することは、人類の持つ偉大な能力の一つだ。
それがあればこそ、お金も、社会も、国家も当たり前のように存在する。
それでも。
そこから切り落とされた何がしかが、いつもどこかで揺蕩っているような気がする。
その何がしかとは、いつか見上げた空の青さであったり、いつか食べたアスパラガスのみずみずしさであったり、いつかの日の傘を叩く雨の音であったりする。
それは、二つとして同じものは、無い。
だから、すべての色を集めた保管庫のような夢想をしてしまうのだろうか。
だから、今日この日を生きる意味があるのだろうか。