二日ほど前、梅雨の合間に黄色を見かけた。
タンポポだろうか。
タンポポというと、春先の弥生のころを想うのだが、この梅雨時期の黄色も悪くない。
完全な円ではなくて、少し欠けたその花弁の形が、どこか愛嬌があり美しかった。
いつも、わたしたちは完全なものになろうとする。
欠点をなくし、短所を修正し、影や陰の部分を隠し。
完璧で完全な円になろうとする。
ありのままの自分は、いびつな形をして当たり前なのに、それを隠そう直そう無くそうとする。結果、苦しくなる。
無理矢理に形を変えることなど、できはしないのに。
長所で尊敬され、短所で愛される。
そんな言葉があるように。
その欠けた部分は、たいせつな誰かに与えさせてあげるスペースだ。
それを晒したとき、誰かが愛を注いでくれる。
欠点、弱さ、短所は、愛を受け取るために天から与えられた恩恵ともいえる。
かの有名なサモトラケのニケ、あるいはミロのヴィーナスが、もし完全な形で残っていたとしたら。
いまのそれらが持つ美はありうるだろうか。
不完全なように見えて、完全なのだろう。
そんなことを想う、不完全な黄色。
その二日後に、同じ場所を通ると、また黄色が目に入ってきた。
まんまるの、黄色の花。
いつの間に、満ちたのだろうか。
後から満ちることなど、あるのだろうか。
そんなことは無いような気がするが、そうすると二日前の花とは別の花なのだろうか。
この世をば 我が世とぞ 思ふ望月の
欠けたることも なしと思へば
満月を詠った、平安時代に栄華を極めた貴族の歌が想起される。
不完全さも、完全さも、どちらも美しいじゃないか。
いや、そもそもが、不完全であり完全なのかもしれない。
昼夜があって一日のように。陰陽があってものごとが満ちるように。
完全も、不完全も。
すべては、ひとつながりのもの。