さて、なんだかんだと続けているストレッチについて。
まだYoutube動画の先生のように開脚できるようにはなっていないが、それでも終わった後の身体が伸びている感じが心地よく、なんだかんだ続いている。
それにしても、Youtubeの動画では「1週間でベターっと開脚できるようになる」と謳っているが、かれこれ1年近く続けているのに、そうならないのはどういうことだろう。
それはともかくとして、やはり気温が上がる夏は、身体が柔らかいように感じる。
冬の間のストレッチと比べても、可動範囲が広くなっているように思うのだ。
気温と身体の関係。36.5℃の熱を持った肉体がある以上、そこからは逃げられないというか、そこがすべての元になっているというか。
身体をいたわるということは、最も分かりやすい自分のメンテナンスなのだろう。
そうは言っても、日々そのストレッチの時間を確保し続けることが、やはり難しい。
少し仕事などが忙しくなると、なかなかその時間を確保できなくなったりもする。
同時に何かをしながらストレッチができないものかと思い、別の動画を見ながらとか、音声メディアを聴きながら、とかやってみたりもしたが、なかなか難しい。
というよりも、せっかく強張った身体を緩めていこうとしているのに、思考が入る音声だとかを聴いていると、気持ちがよくないのだ。
せいぜい、BGMとして流せる音楽くらいだろうか。
効率的に何かをこなす、便利に使う、といった、普段の生活で重宝される価値観とは、相容れないのが面白いものだ。
ゆっくり、じっくり、空白を、余白を楽しみながら。
身体の声を聴きながら。いたわりながら。
そういった時間を持つことは、何も生みださないように見えて、実はその逆なのではないかとも感じる。
動くことと、止まること。
それは陰陽のように、お互いがあるからこそ。
車の両輪のようなものかもしれない。
そうした時間を持つことは、「何もしない時間」を自分に与えることでもある。
ストレッチに限らず、瞑想でも、ソファでぼんやりでも、カフェで人の流れを眺めるでも。
何か形のあるもの、具体的なもの、ことを与えるのではなくて。
何にもないを、与える。
それは、ある意味で最上級の「与える」行動のように思える。
自らのしたいことを、叶えてあげることも、自分に与えること。
行きたいこと、食べたいもの、話したいこと、会いたい人、休息の時間…いろんな形の与え方があるだろう。
そういったことも、もちろん自分を大切にし、自分を愛し、自分に与える行為だ。
それと同じくらいに、何もしない時間を与えることは、自分を愛でることのように思われる。
ある意味で、「受動的な与える」(日本語として意味がおかしい気がするが)とでも表現できそうな、その行為。
ストレッチは、それに近いような感覚がある。
その「受動的な与える」ことは、何にも要らないし、何の条件も要らない。
いま、すぐに、この場で。
与えることができる。
ただ、この私という存在が在りさえすれば、いまここで与えることができる。
どこかへ行かなくてもいい。
誰かの承認を得なくてもいい。
何も無くてもいい。
どんな時間でも、どんな季節でもいい。
ただ、ここに私がいるということを認識するだけで、与えらえる何かが、ある。
ただ、息を吸って、吐いて。
ただ、身体のすみずみの感覚を味わい。
ただ、そこに座っているだけで。
与えられる何かが、ある。
仮に、もしそうだとしたら。
それは、自分に対してだけ、だろうか。
ただ、そこにいるだけで、自分に与えられるのだとしたら。
それは、周りの誰かにも、与えられるものが、あるのではないだろうか。
ただ、あなたがそこにいるだけで。
誰かの生きるよろこびに、なっている。
そんなことは、きっとたくさんあるのだろう。
おそらく、きっと。
いや、きっと、そうなんだろう。
花はそこにあるだけで。