大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

雑踏のざわめきに、人のやさしさを想うこと。

久しぶりに、競馬場の雑踏のなかにいました。

感染症禍下で、なかなか気軽に訪れることも難しい時期もありました。

無観客を経て、事前抽選に当たらないと、入場できない時期が続いたり。

けれど、こうしてふらりと競馬場を訪れることができるようになったのは、ありがたい限りです。

スポーツ観戦でも、声を出しての応援が解禁になり、プロ野球などでは、スタジアムに歓声が戻ってきました。

競馬場でも、レースの直線での歓声、ざわめき、熱気…そんなものが戻って来て、久々にその高揚感に浸っておりました。

人混みが好きかと聞かれて、「好き」と答える人はいないのでしょう。

満員電車、行列、混雑、渋滞…みんな、避けたいと思うものです。

私自身も、そうです。

けれども、たくさんの人の集まる熱気に惹かれるのは、人の心の天邪鬼なところです。

いや、ただ混雑しているのとは、違うのでしょう。

競馬場にせよ、スタジアムにせよ、コンサートにせよ、みんなが同じ方向を見て、応援を送る。

それが、心地よいのかもしれません。

競馬場は、だいぶヨコシマな応援かもしれませんが笑

 

競馬場の雑踏。

混雑しているなかで、誰もが人のことを気に留めていない。

自分の楽しみたいように、楽しむ。

誰かに気を遣うことなく、自分のペースで、自分のことを。

それがまた、心地いいのでしょう。

そんな競馬場の雑踏に揺られて、地下のフードコートを出たときのことでした。

小さな女の子を抱っこしたお父さんと思わしき男性が、歩いていきました。

女の子は、お父さんの胸に抱かれて、眠っているようでした。

女の子の履いていたピンクの靴が、ぽろんと落ちました。

お父さんはそれに気づかず、そのまま歩いていきました。

そのピンクの靴に視線を落とした私と、正面にいた別のおじさんと目が合います。

「私が、声掛けますよ」

私は、そのおじさんに目線でそう伝えました。

声に出すことのないコミュニケーション。

私は、そのお父さんの背中に「すいません、靴落ちましたよ」と声を掛ける。

しかし、フードコートのざわめきのなか、お父さんは私の声に気づくことなく、そのまま歩いて行ってしまいます。

それを脇から見ていた別のおっさんが、こうした方が早いとばかりに、そのピンクの靴を拾って、お父さんの前に差し出しました。

お父さんは、ようやく事態に気づき、ピンクの靴を受けとります。

渡したおっさんは、お礼を聞くまでもなく、すでに競馬新聞に目を落として歩きだしている。

それを見届けた私とおじさんも、コトが終わったのでそれぞれの方向に歩きだす。

文章にすると長くなりますが、ほんの数秒のできごと。

けれど、人のやさしさというか、善性というか、あたたかさというか。

そんなものが詰まっていた数秒でもありました。

 

帰りの電車のなか、流れゆく街灯の灯りを眺めながら、ピンクの靴とともに、過去の私のことが思い出されました。

社会人になったばかりの、私の姿でした。

肉親を事件で亡くした、新入社員。

周りの同僚や先輩、上司にとっては、扱いにくい存在だっただろうな、と思うのです。

自分自身でも、自分がどういう状態にあるのか、分かっていなかったのですから。

周りの方にとっては、さぞ大変だっただろうな、と。

そんな私を、周りの方はみな、必要以上に立ち入らず、見守ってくれていました。

それは、競馬場の雑踏のなかにいる、あの感覚と似ているのかもしれません。

もし、私がピンクの靴を落としたら。

きっと、誰かが拾ってくれたのでしょう。

そんな気がするのです。

 

何かをしてあげること。

温かい言葉をかけてあげること。

何かを与えてあげること。

そうした目に見える形が、どうしても目についてしまうけれども。

そうした形だけを、私は「やさしさ」として認識してしまうけれども。

そうした形を、時に欲しがってしまうけれども。

何もしないことにだって、両手に余るくらいの「やさしさ」が詰まっていたりします。

そうした「やさしさ」は、どうしても見落としてしまいがちなのかもしれません。

その人が、倒れそうになったら、この身体を投げ出してでも支えよう。

そう想っている相手が、そこにいたとして。

その人が倒れなかったら、その「やさしさ」は誰にも見つからないかもしれない。

それどころか、その人は「大変なときに、誰も手を貸してくれなかった」「だから、自分ひとりでがんばってきた」とすら、感じるかもしれない。

私も、そうでした笑

じゃあ、その「やさしさ」に価値がないかといえば、決してそうではないと思うのです。

大変な時に、なぜがんばれたのか。

それは、自分が一番よく分かっているはずです。

 

何もせず、見守ることのしんどさ。

それが、どれくらい大きな愛なのか。

歳を重ねるごとに、それを感じられるようになってきたようにも思います。

 

無関心なように見えて。

人は、誰かを想っている。

人の本性が善か悪かについては、何千年も昔から、論じられてきたテーマでもあります。

そのために、善とは、悪とは、といった定義から論じようとした偉人たちもいました。

どちらが人間の本性かは、私にはわかりません。

けれども、善である方に、賭けていたいなとは思うのです。

私の馬券はまったく当たりませんが、その賭けは当たるような気がします。

まあ、レースの前にはいつもそう言っているのかもしれませんが笑

けれども、実際に振り返ってみると、自分自身も誰かに想われてきました。

そのときには気づかないものも、たくさんありました。

時間が経って、ようやく気付くものもあります。

生きることとは、愛された記憶をたどる旅なのかもしれません。

そして、私はやはり、そんな記憶をたどり、愛を思い出すことのお手伝いをさせていただきたいと思うのです。