久しぶりに、競馬場の雑踏のなかにいました。
感染症禍下で、なかなか気軽に訪れることも難しい時期もありました。
無観客を経て、事前抽選に当たらないと、入場できない時期が続いたり。
けれど、こうしてふらりと競馬場を訪れることができるようになったのは、ありがたい限りです。
スポーツ観戦でも、声を出しての応援が解禁になり、プロ野球などでは、スタジアムに歓声が戻ってきました。
競馬場でも、レースの直線での歓声、ざわめき、熱気…そんなものが戻って来て、久々にその高揚感に浸っておりました。
人混みが好きかと聞かれて、「好き」と答える人はいないのでしょう。
満員電車、行列、混雑、渋滞…みんな、避けたいと思うものです。
私自身も、そうです。
けれども、たくさんの人の集まる熱気に惹かれるのは、人の心の天邪鬼なところです。
いや、ただ混雑しているのとは、違うのでしょう。
競馬場にせよ、スタジアムにせよ、コンサートにせよ、みんなが同じ方向を見て、応援を送る。
それが、心地よいのかもしれません。
競馬場は、だいぶヨコシマな応援かもしれませんが笑
競馬場の雑踏。
混雑しているなかで、誰もが人のことを気に留めていない。
自分の楽しみたいように、楽しむ。
誰かに気を遣うことなく、自分のペースで、自分のことを。
それがまた、心地いいのでしょう。
そんな競馬場の雑踏に揺られて、地下のフードコートを出たときのことでした。
小さな女の子を抱っこしたお父さんと思わしき男性が、歩いていきました。
女の子は、お父さんの胸に抱かれて、眠っているようでした。
女の子の履いていたピンクの靴が、ぽろんと落ちました。
お父さんはそれに気づかず、そのまま歩いていきました。
そのピンクの靴に視線を落とした私と、正面にいた別のおじさんと目が合います。
「私が、声掛けますよ」
私は、そのおじさんに目線でそう伝えました。
声に出すことのないコミュニケーション。
私は、そのお父さんの背中に「すいません、靴落ちましたよ」と声を掛ける。
しかし、フードコートのざわめきのなか、お父さんは私の声に気づくことなく、そのまま歩いて行ってしまいます。
それを脇から見ていた別のおっさんが、こうした方が早いとばかりに、そのピンクの靴を拾って、お父さんの前に差し出しました。
お父さんは、ようやく事態に気づき、ピンクの靴を受けとります。
渡したおっさんは、お礼を聞くまでもなく、すでに競馬新聞に目を落として歩きだしている。
それを見届けた私とおじさんも、コトが終わったのでそれぞれの方向に歩きだす。
文章にすると長くなりますが、ほんの数秒のできごと。
けれど、人のやさしさというか、善性というか、あたたかさというか。
そんなものが詰まっていた数秒でもありました。
帰りの電車のなか、流れゆく街灯の灯りを眺めながら、ピンクの靴とともに、過去の私のことが思い出されました。
社会人になったばかりの、私の姿でした。
肉親を事件で亡くした、新入社員。
周りの同僚や先輩、上司にとっては、扱いにくい存在だっただろうな、と思うのです。
自分自身でも、自分がどういう状態にあるのか、分かっていなかったのですから。
周りの方にとっては、さぞ大変だっただろうな、と。
そんな私を、周りの方はみな、必要以上に立ち入らず、見守ってくれていました。
それは、競馬場の雑踏のなかにいる、あの感覚と似ているのかもしれません。
もし、私がピンクの靴を落としたら。
きっと、誰かが拾ってくれたのでしょう。
そんな気がするのです。
何かをしてあげること。
温かい言葉をかけてあげること。
何かを与えてあげること。
そうした目に見える形が、どうしても目についてしまうけれども。
そうした形だけを、私は「やさしさ」として認識してしまうけれども。
そうした形を、時に欲しがってしまうけれども。
何もしないことにだって、両手に余るくらいの「やさしさ」が詰まっていたりします。
そうした「やさしさ」は、どうしても見落としてしまいがちなのかもしれません。
その人が、倒れそうになったら、この身体を投げ出してでも支えよう。
そう想っている相手が、そこにいたとして。
その人が倒れなかったら、その「やさしさ」は誰にも見つからないかもしれない。
それどころか、その人は「大変なときに、誰も手を貸してくれなかった」「だから、自分ひとりでがんばってきた」とすら、感じるかもしれない。
私も、そうでした笑
じゃあ、その「やさしさ」に価値がないかといえば、決してそうではないと思うのです。
大変な時に、なぜがんばれたのか。
それは、自分が一番よく分かっているはずです。
何もせず、見守ることのしんどさ。
それが、どれくらい大きな愛なのか。
歳を重ねるごとに、それを感じられるようになってきたようにも思います。
無関心なように見えて。
人は、誰かを想っている。
人の本性が善か悪かについては、何千年も昔から、論じられてきたテーマでもあります。
そのために、善とは、悪とは、といった定義から論じようとした偉人たちもいました。
どちらが人間の本性かは、私にはわかりません。
けれども、善である方に、賭けていたいなとは思うのです。
私の馬券はまったく当たりませんが、その賭けは当たるような気がします。
まあ、レースの前にはいつもそう言っているのかもしれませんが笑
けれども、実際に振り返ってみると、自分自身も誰かに想われてきました。
そのときには気づかないものも、たくさんありました。
時間が経って、ようやく気付くものもあります。
生きることとは、愛された記憶をたどる旅なのかもしれません。
そして、私はやはり、そんな記憶をたどり、愛を思い出すことのお手伝いをさせていただきたいと思うのです。